saoriotsuka-diary

イラストレーター大塚砂織の由無し事を綴るページです。仕事の紹介もしますが、ベランダ園芸の話やたわいない話が多いかも。

クレヨンが足りない

今日はちょっぴり真面目な、というか内省的な話題なんですが。

世界というのは常につらいことが起こっていて、今も昔も悲惨なことは起こり続けているんですが、最近はネットの普及により、世界のあちこちで起こる様々な抜き差しならない問題について情報が絶え間なく入ってくるので、無力感や罪悪感に向き合う機会も増えたような気がします。

知るのだけど、できることは少ない。もちろん、小さくともできることはあると思いますし、例えば今回の地震などでも、ほんの少し寄付してみたり、ガザの空爆とかいますぐやめてほしいので署名とかしてみても、したからといって世界は1オングストロームもびくともしないのであり、途方に暮れつつ、夕飯は何にしようか。とか、自分のくだらない失敗とか、お金の悩みとか、くよくよと個人的な人生の悩みなどで忙殺され日常を生きつつ、いっぽうで世界に充満するその「どうにもならなさ」をどう考えていいのか、ため息なんですね。

自分がすごく若かった、物知らずな頃には、社会の悲惨というのはもう少し距離感を保ってるというか、例えば過去の出来事だというか、悲惨は克服され過去になっていくものだという思い込みがあったんですよね。「過去に世界大戦があった(これからは繰り返さない)」、というような過去形の歴史。

あるいは、良心的な知識人などの著作を読んだりすると「それでも世界の良心の総量は増えていくはずだし、少しずつ良くなっている、というかよくしていけるはず」というような楽観的な希望もちょっとは感じたんですが。

しかし、ある程度人生を生きてくると、わたしが生きてるうちにもう世界ではいっぱいずーっと戦争し続けてますし、未曾有の大災害、悲惨な事件みたいなのも国内でももう何回も起こってますし。CO2も増え続けて、静かに多くの動物たちも世界から絶滅してしまっていますし、世界は平和なんかではなくて悲惨と共存してるままだというのがわかってくる。そういう世界で、でもまあ、自分の日常はそれなりに生きている、というか、生きてかなきゃなんないしね、という「どうにもならなさとの共存」には慣れっこになってるはずなんですが。

 

ですが、が多いですね。

 

でも、今、毎日赤ん坊とか爆弾で吹き飛ばされてる写真とか映像とかばんばん流れてきてて自分もだけど誰も止められないというのを見てると、もうなんか滅入ってしまって、何をやってても気が晴れない、晴れないけども普通に暮らしてる。で、またそれに気が滅入る。わたしたちも属している「近代西洋社会的価値観」は人権が礎だったと思うのに、「人権適用外の人がいる」って堂々とやっちゃってるのをリアルタイムで見ると、どうしても混乱せざるをえない。どうなっちゃってるの。

繰り返しになりますがこれって今に始まったことじゃなくて、ずーっとやってたわけで、パレスチナはずっとだし、イラク戦争とかシリアとかコンゴとかイエメンとかウクライナとか、そういうのが起こり続けてるのにものうのうとぼんやり生きてたのに、急にネットで自分の観測範囲内にその抜き差しならなさがどんっと置かれたからといって狼狽して嘆くなんて、何言っちゃってるんだいこのうっかり者。って自分に情けなさを感じます。

なんだか最近ブログとか、SNSとか全然やる気が起きないのは、やっぱりこの辺、もやもやとしたわだかまりがあるからなんだな、と思ったんで、せめてここで頭を整理するためにこうして書いてみたりしちゃってるわけです。書いてて全然整理されませんね、こりゃ。

 

先日、イスラエルがガザに残った最後の大学に爆弾を落として、盛大に吹っ飛んでしまった映像を見たとき、わたしは昔読んだ本の中のある文章を思い出しました。「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」というロバート・フルガム著1990年のエッセイ集で、その中に「クレイオラ爆弾」というのが出てくるのです。

クレイオラ爆弾というのは何かというと、上空で爆発するとふわりふわりと無数のクレヨンがパラシュートをつけて降りてくる。紛争が起きるたびにこれを投下したらいいのでは、と著者は提唱します。人々は落ちてきたクレイオラ(しかも豪華64色入り)を手にすると、まず戸惑いの表情を浮かべ、そしてすぐに満面の笑みで世界を想像力で塗りつぶす、という寸法です。わたしの弁では力不足なので、ぜひご本人の言葉を読んでほしく、ここから引用します(問題があったら取り下げますのでご一報ください)

 

『何を馬鹿なことを、とお思いだろうか?たしかに、いくらか幼稚な考えかもしれない。常軌を逸した、愚かしくもむなしい発想と言われてしまえばそれまでだ。だが、しかし、今朝の新聞でわたしはソ連政府とアメリカ議会が兵器のためにどれだけの予算を確保したか読んだ。いったい、そんなにしてまで兵器を買ってどうしようというのだろうか?それこそ常軌を逸した、愚かしくもむなしいことと言うべきではないか』

 

まあ、まず「クレイオラ爆弾を落とさなきゃいけない場所はどこか」って言ったら、爆弾を落としてくるような人たちがいる場所ですよね。なんでその人たちは人々の頭の上に本物の爆弾を落としていいと思ってるのか。爆弾のスイッチから手を離してクレイオラを握ってほしい。ハワード・ジンがかつて、現代戦争は犠牲者がほとんど民間人であること、民間人に対して仕掛けられた戦争だということを指摘していましたが、なぜいまだにこんなことになってるんでしょうか。

「ひとの生活に頭の上から爆弾を落とすなんてひどいありえない、絶対やっちゃだめ」というコモンセンスを持った社会、困ってる人を救うことに尽力する社会であってほしいなあ、というか作らなきゃなあ、と思うんですよね。

動物も植物もですよ。みんな一生懸命生きてるのに。今訳あって土壌について調べてるんですが、土だって、爆弾とか化学兵器とかで荒廃汚染させてる場合じゃないですし。

 

起こってることを今すぐどう止めていいのかはわからないけど、これから起こさないためにはやはりクレイオラ爆弾は必要だと思うんですよね。爆弾のスイッチやらお金やら憎しみやら賢しらぶった「爆弾を持つ理由」を握りしめるより、クレヨンを握る人、つまり、クレヨンからはじまる、五感や感受性の営み、笑顔、そういうささやかなことひとつひとつのかけがえのなさを軽視しない人を選ばないと。そういう人を選ぶため、選ぶ側のわたしたちにもクレイオラがもっと必要かもしれないなあと思ったり。

 

今日の文章はなんだか言ってることがとっちらかってるし、そもそもわたしがえらそうになんでそんな壮大で世間知らずな話をしてるの?恥ずかしい。とも思いますが、"取り澄ましってのはね 君が人生でほんとに言いたいことからきみを遠ざけてしまうのさ" って、だれかも歌ってたことですし、とりあえず書いてみました。こういう話はSNSなんかで短くできる話でもないので、ブログにしたためております。長いことSNSしたり見たりしてますが、どうも根本的にSNSが苦手なのかもと最近つくづく思っています。それはまたまあ別の話で、今日はこの辺で、ではまた。

 

追記

「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」は調べたらつい最近、決定版と銘打った文庫版が出たみたいです。ここで紹介した話以外にも「わたしは人魚」とか、「タンポポがいっぱい」とか、とても好きな話がいろいろある一方で、これを書くにあたってうちにある初版を読み返したら、昔と感じ方が違う話も結構ありました。昔の自分はどう思ってて今なぜそう思うのかなどを掘り下げたり、そういうのも含めて本というのは、賛同だけでなく批判的にもじっくり読んだり、また、繰り返して読んだりできるのがいいねと思います。なお、アマゾンのレビューをちょっと覗いたら、「幼稚園をめぐる教育本やあるいはノウハウ本」だと誤解して読んだ方も何人かいらっしゃったのをお見受けして、本のタイトルのつけ方って難しいなあ...とまた別のことも考えちゃいました。