saoriotsuka-diary

イラストレーター大塚砂織の由無し事を綴るページです。仕事の紹介もしますが、ベランダ園芸の話やたわいない話が多いかも。

最近の仕事から その2

本の挿絵の仕事をもうひとつ。

SBクリエイティブの新刊『「繊細さん」の4つの才能』(コートニー・マルケサーニ/和田美樹 訳)の中の挿絵を描きました。

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「Highly Sensitive Person (HSP) 」という、人より感じやすい感受性を持った気質の人を表す言葉が最近よく聞かれますね。この本はそうした方の特性と、その特性を持った人が自分に自信を持ち困難を和らげられるようなヒントが書かれています。HSPは病気や障害を表す医学的な診断の名前ではないようで、あくまで気質的なものらしいのですが、自分が普段抱えている生きづらさに名前がついて、そうした事に悩んだり様々葛藤を抱えているのはあなただけではない、そういう人がいるんだよ、という事を知るのは当事者にとって励ましというか理解というか、困難の解消またはうまく付き合う事に繋がるのかもしれませんね。わたしはどちらかというと、知らずに人を傷つけたりなども多いたちのとほほ人生でむしろ繊細さんとは真逆のぼんやりした「鈍感さん」なので、こういう風に思う、感じる人がいるのだなあ、という事を心に留めて、他者への配慮をなるべく忘れないように心がけたいなあと思います(って、思ってるそばから実践できてないんだよ!ってツッコミがあちこちから飛んできそうな気がする..ご、ごめん)。

 

というわけで、最近の仕事ふたつは、自分を知る、自分の周りを整える事で自分の人生を生きやすく、ポジティブに生きるための一助になるような本だったのですが、そうして自分でできる事で自分の人生をよりよくしていくのはすてきな事ですね。

いっぽうで、でも自分にはどうにもならない社会の不公平や不正により、いくら自分の側でがんばってもどうにもならない事もたくさんあったり、自分以外の人の困難が解消されないままだったり、そういうのをなんとかするにはやはり世直しというか、政治や社会を改善するのも大事ですよね。というわけで、ちょうど近々に選挙などもありますし、そうした社会アクションもしたり関心を持ったりしつつ、しかし自分の心身もいたわりつつ、寒いのであったかくして、がんばりすぎずお茶など飲みまして、楽しく過ごしたいですねえ。

最近の仕事から

すっかり仕事紹介をしてない今日この頃ですが、いろいろしております。ので、何回かに分けて紹介していこうかと思います。

 

まず、最近描きました書籍の挿絵の仕事。

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ダイヤモンド社から、「李家幽竹の風水大全」という、李家幽竹さんの集大成のような豪華本です。

こちらにはすごくたくさんイラストを描いています。イメージイラストから説明のイラストまで、いろいろありまして(何気に表紙の飾りも描いてます)、仕事をしてて楽しかったですので、本を開く読者の方にも楽しい気分が伝われば幸いです。

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たくさんあるんでたくさん紹介しちゃいました。とは言ってもまだまだたくさんあるんですが。小さいものたちのイラストなども、心を無心にして描けるので結構好きです。

 

わたしは風水は疎いのですが(って、すみません💦)、今回お仕事させていただき読んでみると、日常の小さな様々を少し気にかけたり丁寧にしてみたりすることで自分の心を整えたりポジティブになったりする、という意味では普遍的なテーマだなとも感じました。自分にあったところを取り入れて、日々を楽しく過ごせるならすてきなことですね。

 

次回紹介するのも、そうした「心」の問題を扱った本です。と、予告しつつ、ではまた。

 

明日は読みかけのままに ー 父への追憶 ー

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ホームページもリニューアルしたことだし、もっとブログも書こう、と思ってた矢先なのですが、父が入院したりもあり、ばたばたしてまたお留守になっていました。先日、父を見送ることになりまして、とりあえずひと段落なので、また徐々に通常モードにもどしていきたいと思います。

 

今日はそんなで、ちょびっと父の思い出話をしようと思います。わたしは家族のうちでは父に似ているほうで、似ていると言っても、朝寝坊なところとか、世間の常識にとらわれないマイペースなところ(非常識とも言う)とか、なんだか妙に反骨精神があったりだとか、若干とほほでヘンテコな部分が似ておりました。父も出版社勤務を辞めて自営で印刷業を始め、ずーっと自営業でしたので、そういう自営業気質も、わたしに影響したのかもしれません。

 

あまり子供と遊んだりなどしない人で、よく言えば多趣味、悪く言えば家族を顧みない自分の世界に重きを置く人でした。カメラ、本、ビデオ...なんというか文化おたくの走りですよね。その(家庭より自分の)趣味優先のおかげで、母は相当やりくりに苦労させられたそうです💦。

 

そんなわけで、わたしには直接的な触れ合いの思い出、一緒にどこかに行ったとか、遊んでくれたとかは正直あまりないんですが、父の部屋にずらっと並んでいた個人的な趣味のコレクション、たくさんの本、宮沢賢治や自然科学、ミステリーに英米文学、そして映画を録画するのが好きだったので、様々な映画ライブラリーの背表紙、オペラや音楽のCDなどから、たくさんの文化資本の恩恵を受けたと思いますので、その面では大変恵まれていたと思います。

 

ただ、余談ですが、父のビデオライブラリーの歴史は、記憶媒体の衰退でそれがぜーんぶおじゃんになる、という戦後高度経済成長の資源浪費インフラ変遷の歴史でもあります。いろんな面白そうな映画(しかも今のサブスクにはないようなレアなマイナー名画とか)を保存してたんで、わたしもあとで見よう、と思ってたものがたくさんあったのに、LDやらベータマックスやら8mmやらの記憶媒体だったんで、再生デッキの終焉とともにゴミになっちゃったんですね。ああ勿体無い。

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つわものどもが夢のあと、というか草も生えない規格覇権に翻弄されましたね。

 

さて、父はそんな事は物ともせずにいつも好きな事に邁進しておりまして、取り留めなく知的好奇心があちこち飛んでいた人というか、人生かけた積ん読の未聴ラーだったというか(いや、少しは消化してたと思いますが)、父の部屋を改めてまじまじ見てみますと、相変わらずのコレクションに、ベッドの横にはNEWTONの付録のでっかい元素番号表が貼ってあったり、真新しい「世界一美しいフクロウの図鑑」があったり、大学時代研究したフォークナーのコレクションがあったり、パソコンのそばには作りかけのライブラリー目録があったりで、きっと頭の中には「いつかこれをまた読もう、これをしよう、あれが知りたい」がまだまだ詰まってたのではないかと思うと、心残りがいっぱいだったろうなと思います。入院時に母に言ったことには「入院中の新聞をとっといてくれ、あとで読むから」とのことでした。その後、新聞を読めるどころの容態ではなくなってしまい、そのままだったのですが。

 

子供の頃、父の部屋兼居間に並んだたくさんの本やビデオ背表紙を眺めながら、「中にどんな事があるんだろう」と思いを巡らせたのがわたしの想像力の原点だったのかもなあと思います。そう思うと、やはり父の影響は大きく、もっと話をしないうちにお別れになってしまってさびしいですね。時間はいくらでもあったのに、ぼやっとしてるうちに、読みたい本は読みきれず、大事なことは何一つ話さないまま、人生はタイムオーバーになってしまうのかもしれません。わたしも、本棚にあった中央公論の世界の名著シリーズとか、いつか読みたいと思ってぜーんぜん読んでないんですが、死ぬまでに読む事ができるだろうか、うーむ。また、以前にも書きましたが、父の本を読み始めると、中に割とあれこれ書き込みがあったりするんですね。これからも、ふと手に取った古い本の中で、ふと父のひとりごとに出会えることもあるのかもしれないと思うと、うかつに本も手放せないなあとも思います。まだまだ開いていない、先の分からないページが人生にはあるのですが、開かないまま終わってしまう、そんなこともたくさんありますね。

 

先日、母と昔の写真を見ておりましたら、そんなわけで家族で出かけたことも少ないのですが、数少ないお出かけイベントの写真を見てると、父がカメラマンですので父の写真はほとんどないのに気付きました。母が言うには「父はいつもでっかいカメラのセットを持っていてカメラにかまけていたので、子供をおぶったりなどの世話はしてなかった」そうですが、まあそのカメラセットのおかげでこうして他の家族が思い出話に花を咲かせられる写真が残ってたりもするもので、愛情を表には出さなかったのですが、多少はやはり家族の時間を父なりに楽しんでいたのでしょう。(そのぶん母には苦労が多かったようで、ビタースイートな思い出話がアルバムからぽろりとこぼれてきたりもするんですが...)

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父が撮った母とわたし。母の手作りの服が懐かしいですね。

 

父は入院以来、コロナ情勢で家族との面会もままならぬままずっと一人で病院にいる事になってしまい、心細く孤独な闘病を2ヶ月も過ごしました。どうしようもない事ではあったのですが、やはり家族としてはやりきれない気持ちというか、人生の最後にひどくかわいそうな事をしたと様々な後悔を感じています。しかし、最後の最後の晩に、意識を失ってからではあったのですが、病院の計らいもありやっとなんとか病院から自宅に戻ることができました。深夜に自室のベッドで静かに呼吸するばかりの父の傍にいて見守っておりつつ、何も音がないのも寂しいなと、ふと父のテレビをつけてみると録画リストの中にサイモン&ガーファンクルのセントラルパークコンサートのビデオがありました。わたしは子供の頃、父がかけてた影響でサイモン&ガーファンクルが好きだったもので、それを流しながら父の手を握っておりました。流れてくる「Homeward bound」の歌詞に耳を傾けると、入院中ずっと「家に帰りたい」と言って先生や看護士さんを困らせていたという父の気持ちが歌われているようで胸が詰まり...。父にとって、まさに、家は好きなことに囲まれた心の逃避地であり、愛しい人が待つところだったのだろうなあと。お父さん、やっと家に帰ってこれてほっとしたね。少し、遅かったけども。

 

「お金・仕事・家事の不安がなくなる共働き夫婦 最強の教科書」

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東洋経済新報社からの新刊「お金・仕事・家事の不安がなくなる共働き夫婦 最強の教科書」 内藤眞弓 著、成宮 成(dig) カバーデザイン(ともに敬称略)のカバーイラストと中の挿し絵を描きました。カバーはデザイナーさんに色を決めていただき着彩いたしました。こういう場合はいつも、特色版の部分を同系色のCMYの版(今回はC版)で描いて納品しています。

おもに男女カップルでお子さんがいる・持つ予定がある共働き家庭で想定される、生活とお金、仕事の様々なシーン、ライフステージでのヒントがたくさんあり、不安なこの世を渡っていくのにとっても力強い一冊ではないかと思います。わたしには子供はいないのですが、そういう人にとってももちろんお金や働き方や気持ちにゆとりを保つ為の考え方などについてためになるお話が多々あって、ふむふむと読み進めますね。また、周囲のお子さんのいる家庭との付き合い方の理解にも役立つような気がします。

 

* * *

 

さて、この本の冒頭に、親世代と今の子育て世代では社会情勢がすっかり変わってしまって、昔の、親世代の頃の感覚ではやっていけないというお話があるんですが、「80年代は定期預金10年で資産が倍になった」「東京の新築マンションの価格は70年代の5倍」など、確かにそうなんですが、言われてみると驚愕ですね。ひぃー、昔ってそんなだったよね。それに比べて現代社会よ、タイト。超タイト。自分の親世代だけでなく自分もなんとなくその頃の感覚、「将来はなんとかなるさ」みたいな気楽さの記憶をぼんやり引きずりつつでついそういう夢を求めてしまいがちなのですが、現実の厳しさは容赦なく襲い来るのですよ。いろんなことがいろんな方面にめちゃ不安ですね。うーん。でも、すでに厳しい時代に生まれたもっと若い人のほうがその辺の感覚はシビアに持ってるのだろうと思うと、うーん、若い人のほうがもっと(精神的にも)しんどいですよね。ごめん...。大人がめげてる場合ではなく、生活の安心の大元になる政治とかシステムとか、やっぱりその辺にまず希望が持てる社会にしないとですねえ...。

 

ところで、またブログ更新の間がちょっと空いてしまいました。8月中旬から父が急に肺炎で(covid-19ではないです)入院してしまい、気持ちが落ち着かなくて、仕事はきちんとしているのですが、それ以外のことが全体におろそかになってしまっておりました。父は持病はありつつも普段の生活に支障なく過ごしていたのに突然のことで、この社会情勢でここのところあまり普段会って話もしておらず、その後も入院したままなのですが、病院もコロナ厳戒態勢につきお見舞いにもあまりいけませんで、ただよくなるのを願うばかり、しかしまだ闘病は長丁場になりそうで、わたしができることもあまりないのに心が宙ぶらりんで焦るような、しかし実際は何も手につかないような状態で過ごしております(句読点の多さに心の混乱が現れてしまいました)。こういう時、仕事があるとかえって心が落ち着くというのがありますね。それと、わたし自身の日常は通常通り過ごしておりますのでどうぞご心配なく。

しかし、こういうことに直面してみると、病気の人の苦しさ、また家族など周囲の苦しさ、医療従事者の方々のご苦労、いろんなことをつくづく感じ、今、かつてなく病気の脅威に皆が晒されているこの状況は、本当に難儀なことだなあと思います。気が滅入ってくるのですが、世の中がこんなだもの、そりゃだいたいの人はなんらか気が滅入ってくるのは当たり前かもしれず、低調気分はわたしだけじゃなかろう、とも思います(さっき希望が持てる社会にしたいとか言いつつ暗いですね。いや、でも、曇に隠れて今は見えないけどお日様はなくなってはいないはず...ですよね)。皆様、どうか無理せず自分をいたわってご安全にお過ごしくださいね。そして病める時も健やかなる時も万人を支えてくれるような社会であってほしいと切実に願います。

楽しきはドールハウスあるいは箱庭

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せっかくホームページを更新したので、その中から仕事の紹介などもボチボチしてみたいと思います。イラストを描く時、表現する題材、媒体によって表現方法が若干変わったりするのですが、書籍の装画など、画面の構図をばしっと決めて簡潔に見る人にメッセージを伝えたい時には比較的平面的、シンプルな表現、メタファー的だったり単純化したモチーフやアイデア勝負で描くのがわたしの好みです。

 

いっぽうで、上のイラストのように、説明的なイラストレーションなどではもう少し写実的というか立体的というか、細かい部分を描いたりするものもあり、そういうのも案外好きです。

こういう絵を描いてると、子供の頃絵本で街並みや家の構造の絵などを見るのが好きだったなーとか思い出しますね。各部分で、ここの部屋の人はこういう人でー、この戸棚はこんな風になっててー、とか、この街角ではこういう事が起こってて、みたいなちっちゃなシチュエーションを頭の中で考えて描いたりします(見る人もそういうのなんとなく考えながら見たりしますよね、こういうイラストって)。

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画数は多いですが、適正な時間さえいただければ(とは言っても、そんなに長期間でなくともいいんですが、今日頼んで明後日ラフ!みたいなスピード感だときびしいですねさすがに...💦)、楽しくノリノリですんで、もっと描きたい仕事です。空間を作るのって、なんか天地創造的(急に規模がばかでかい比喩)で、園芸とかインテリア考えたりとかもそういう快楽がありますよね。絵の中でもやっぱりそういう部分があるんですよねー。わたしの理想のお家、とか、理想の街、とか、絵の中なら描き放題ですもんね。

 

ところで、現実の我が家は...まあ、狭くて、おしゃれでもないんですが今の家で十分満足ではありつつも、現状は理想の100倍ぐらい本やら資料やらCDやらよくわからないものやらに囲まれてるんで、絵に描いたらえらい画数ですね。というか描きたくない。もっとスッキリシンプルに片付いた空間に生きたいですね、と思ってまたシンプル生活術の本とか買ってさらにものを増やしたりして。こらっ。だって、こういう絵もそうですけど、「脳内シミュレーション」って楽しいんだもん。ほほほ。

ホームページをリニューアルしました

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↑画像をクリックするとホームページに行きます。

 

長いことするすると言いつつ捗ってなかったんですが、やっとホームページのリニューアルがおおむね完成しました!最新の仕事や作品を大幅に増やし、また過去の仕事でもちょっと今見ると新鮮と思ったものも加えたりしてみました。トップページのイラストは3パターンありまして、リロードするたびに絵が変わりますので、ぜひ三回以上リロードしてみてくださいませ。

 

今後はここももっと季節ごとにイラストを入れ替えたりきちんとする予定です。営業下手で、ほとんど営業的なことをできないダメ人間なのですが、せめてホームページぐらいはきちんと整えて常に活気ある状態にしておきたいなと思っています。ぜひぜひごらんください!

また、ここしばらく、この中から、仕事や作品をピックアップしてブログでもちょいちょい紹介していこうと思っています。

佃煮をお探しですか?

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と、amazonからメールが来たのです。いや、全然お探しでない。そもそもamazonは滅多に利用しないのです。が、よーく考えてみると、多分随分前に、海苔の佃煮が食べたくなって、調べた事があったような気がします。そんな昔の事を覚えていたのか、お前は。そして、その時に結局amazonでなく近所のスーパーで買った海苔の佃煮があったはず、と思い至り、食品庫的なゾーンを探したら、ありました。賞味期限、大丈夫かしら。と思い確認しましたら、今年の10月まで大丈夫でした、ほっ。しかし、完全に忘れていたので、いけないいけない。早く食べなければ。

 

最近は便利なサービスがいろいろあって、たくさんのリマインダーがメールやSNSに舞い込みます。ひとつひとつは小さなお知らせですが、積もり積もると生活の中の集中力というかが削られるというか、散漫になる気がしますね。常にセールのお知らせ、新商品の紹介、この人が投稿しました、以前寄付や署名したこの件に進捗がありました、などなど、確かに知ると便利な情報ではあるのですが、わたしの脳はあまり情報処理容量が大きくないので、メールチェックのたびにうっかりそこに誘導されたりして、はて、わたしはそれまで何をしてたのかしらん。となってしまう事が多いです。

 

その割には、本当に重要な事のリマインダーをうっかり見逃したりして、カレンダーに仕事の〆切りなどの予定を書いてるのですがいつもヒヤヒヤです。よくあるのが、「カレンダーに自分が間違った予定を書き込んでしまった、あるいは書き込まなかった」という事例で、いくらハイテクの現代でも、そんな基礎的なミスをするような場合はどーしよーもないですね。とほほ。

また、通知が多すぎて大事な仕事のメールが埋もれてしまったりするのも大問題です。なるべく余計なメルマガや宣伝が届かないように設定するんですが、そのサービスを解除するためにログインするためのパスワードが忘却の彼方だったりするものもあり、それこそ誰か、思い出させて!って感じです。

 

そして、たくさんの思い出さなければいけない事に囲まれてはいるんですが、本当にわたしが思い出したい事とはなんだろうか、とフト思ったりします。

 

先日夕方、遠くのスーパーまで散歩がてらに歩いて買い物に出かけたのですが、逢魔が刻のはかない時間、世界中が不思議なピンク色の夕焼けに包まれ徐々に蒼い夜に変わっていくのを、しばし立ち止まって眺めておりました。子供の頃は、こういう時間、暗くなるまで疲れを知らずに外で遊んでいたなあ。あるいは、仕事を終え、寝ようかという時間にもう朝日が上がってるのですが、窓を開けると、空気の匂いがなんというか、林間学校に行った朝の、期待と不安の入り混じった気分を急に思い出させてくれる事もあります。

 

本当に「思い出したい」ものって、新鮮な喜びや期待、胸ときめく好奇心なのではないか、と夕日にひとりごちる中年(というかもう中高年ってやつかも)です。そして、そうした気持ちをいつもふいにリマインドしてくれるのは、巡ってくる季節の機微だったりしますね。いい年しても人間ってやつは(主語がでかい。わたしは、ですね)夕日に胸焦がしたり、海岸で貝殻拾ったりしたいのです。もっと時を惜しんで、季節に身を浸したいものだなあ、という思いと、いや、大人なんだから仕事とか忘れてぼーっとしてはいかん、いつまで夏休みの子供気分なんだ、自分。という呵責の間でせめぎ合う夏の夕暮れです。

楽園を舗装しないためには?

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わたしはツイッターで、海外の気候学者とかジャーナリストとかをフォローしたり眺めたりしてるのですが、先日NASAの気候学者ピーター・カルマス氏が、このようなツイートをしてたのですね。

 

ご本人のコメントにもあるように、悲しいですよね。それに、ここのところ、地球上あちこちで高温、山火事、洪水などの悲しいニュースもよく聞きます。そして、ちらほら「それらは気候変動の影響」という見方も伝え聞きます。しっかし、どうしてこんなに気候変動が深刻になっちゃったのか。遡ればそれはもう、1980年代には科学者たちに危機を指摘されていたことなんですが、あらうっかり。わたしたちの社会は「危機だから対応しなきゃ」と掛け声を上げつつも、いろいろありまして現実にはCO2などグリーンハウスガス排出量は全然減るどころか、増える一方だったのですねー。そして、人類はCO2を人工的に回収する技術を大規模実用化していないという現状の中、しかし!有力なCO2回収技術はすでに地球上に存在するそうです。それってなに?

...なんのことはない、木が、森が、そして海が吸収してくれてるんですよ。あら、なんてありがたいの、自然。人間の不始末をフォローしてくれてるんですね。が。上の写真みたいに、その吸収源を、しかも何百年とか何万年単位で育んできた森林システムをあっちゅう間に換金し続けたら、お先真っ暗だろうなあ...と思います。

 

ジョニ・ミッチェルの歌に「Big yellow Taxi」というのがありまして、その歌はジョニがハワイに行った時に、すばらしい環境と自然があるのに、こんな楽園を舗装して、駐車場は作っちゃうわ、自然に生えてた木を引っこ抜いて博物館で展示してるわ、なんかそういうのって、当たり前になっちゃってるけど、おかしくない?というような感想を述べた歌なのですが、現在に至るまで化石燃料を掘るために膨大な環境破壊をしてますし、最近も急激にアマゾンや東南アジアで農業やバイオ燃料の需要でせっせとかつてない規模で熱帯雨林を減少させてますけど、他にも太陽光発電(それ自体は大事な再生エネルギー選択肢ですが)の為にこれまでは環境アセスメントもそこそこに炭素吸収源である森を切っちゃったりもあって、わたしたちの社会はちぐはぐな事をやっちゃってますね。

 

木を切って一度更地になってしまったところも、放っておけば、あるいは植林などすれば、木はまた生えてくるかもしれません。でも、そこに住んでた多様な生物はそこで一旦絶滅してしまえば二度と帰ってきませんし、単に木を植えるだけでは、微生物や菌やらから大型動植物まで、相互に複雑に絡み合って成立してきた生態系は戻ってこないそうです。最近の議論では、気候変動問題は排出ガスに対処するだけでなく、生態系保護も非常に重要だという話もあります。これ以上物事を悪くしないために、持続可能利用をする場所だけでなく、できれば「何もしないでそっとしておく」ほうがいい場所も地球上にはもっと必要なのですが、それがどんどん少なくなってるのですね。ゴリラの生息地も、サンゴ礁も、このまま人類の地球浪費と無策をほったらかしてたらあと30年でほぼなくなるって話です。

 

他人事みたいに言っちゃってますが、自分がやってる事もそれに大いに関係があるわけで、以前にバンクシーだったか、誰かが書いたこんな風刺画を見たんですが、残念、その風刺画を今発見できないんで、わたしの記憶による再現でお届けします(ですのでこのまんがはわたしのオリジナルではありません)。

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あーあーあー。そうだよね。これを見た時結構落ち込みました。わたしもこれ、やってるやってる。うちにある家具だって全部どっかの木を切ってきたものですし、わたしは仕事柄紙の消費が多い自覚があります。木だけでなく、あらゆるシーンでやってる自覚あります。とほほー。けれど、人間はまったく消費をしないで生きていく事はできませんし、必要な消費もあります。住む家や食べるもの、移動手段などは必要ですよね。電気を節約しよう!と言って灼熱の真夏にエアコンをつけなかったら命の危機です。

うーん、でも、どこか、無駄にしてる部分も多いかもしれませんね。何かもっとよりマシな代替の選択肢もあるかもしれません。

 

では、こういう問題を緩和するために、なんかしらわたしにもできる事はないかしら、と思って、わたしは電気会社を再生エネルギー100%の会社にしたり、菜食をしたり、フードロス削減のためコンポストをしたり、プラ包装をなるべくもらわないように気をつけたり、まあ、無駄な消費をなるべくしない努力をちびちびしていますが、一人一人ができる事は超微力で、「大事なのは個人努力でなく、システムチェンジだ。個人努力のほうに気をとられると本質を見失うのでよろしくない」と言う人もいます。確かに、こっちでちまちまミクロの努力をしても、蛇口を閉めなきゃどーにもならん。という事は往々にしてあります。わたしが紙をリサイクルに出したって、そのリサイクルはちゃんと機能してるの?とか、一方で「この森を切り開いて駐車場にします」とか行政が決めたら、ああ無力。でも、いえいえ、ああ無力、で終わらせちゃあいけないよね。じゃあシステムをどうやってひっくり返すかというと、「蛇口を閉める必要がある」と思う人が増えないと、政策なり消費動向なり予算投入なりが変わらないのではないかな?と。

そこで、人間誰しも身に覚えがあると思うんですが、自分が関心のある事には詳しくなるし、どこに問題があるのかもはっきり見えてくるもので、個人努力をするというのは、そういう「問題点が見えるようになるための入り口」だという効果が大きいのではないかと思います。やってる人のほうが、やっても報われなさがわかるわけで、どーにかするには社会を変えねばならん。と思ったりします。さっき「うちにある家具だって全部どっかの木を切ってきた」と書きましたが、なんらか減らそうと意識するとまず「それはどこに生えてた木でどういう経過を辿ってうちに来て、うちから先はどこにいってどーなるのか」を考えるようになります。また、スタジアムのロックコンサートを考えればわかると思うんですが、一人一人ファンが支持して集わないとあのぎゅう詰めの会場の興奮は生まれない。環境問題で言えば、個人努力に積極的な人はコレクティブアクションの大いなる応援団になるポテンシャルがあると思います。

また、個々の影響力という意味では、逆に海辺いっぱいのプラゴミも元はと言えば誰かが気軽にポイと捨てたり、あらうっかり風で飛ばされちゃったり、みたいなものが集合体になって浜辺を覆い尽くしてるわけですから、個人の影響力も侮れないっちゃ侮れないと思います。わたし達が直接アマゾンに行って木を切ってるわけじゃないですが、木を誰かに切らせているのは誰か、となると、まあ、わたし達にもまあまあ責任あるんじゃないかなあ、と、いう。(それに、個人消費が実際に大きな影響の一端であるというお話もあります。それはまたおいおいに)

 

しかしもちろん、忘れちゃいけないのが、そのように個人で努力する事が可能な状況もあれば、皆大変な人生を生きてるわけですから、貧しかったり健康でなかったり状況がままならず、そういう行動が取れない人や場合というのが必ずありますし、すでに多くを持っている人が持たざる者に負担を強いるのも不公平です。また、個人同士で「お前は努力が足りない!」とか責めたりするのも本末転倒というか非常にダメだと思います。(こういう話でありがちなのが、「お前はAという事に取り組んでるのに、Bに取り組まないとはなんたることだ、けしからん。」みたいな展開ですが、人間のリソースは有限かつ人間はうっかりしてるので、そういう事はまあ、起こっちゃいますよね。現にわたしも逆に環境負荷の高い行動もたくさんしてると思います。そこを克服する智恵もまたどなたかに借りたいなあと思いつつ。)しかし、個々がささやかでも何か実行可能な事を考えてみたり、知恵をシェアしあったりして社会を後押しし、全体のシステムを変えるきっかけを作れる部分もあるかなあとも思うし、「自分にもできる事があるのでは」という希望を持つのは「自分は無力だ」と思うよりは問題解決には大事ではないかとも思うんですよね。ピープルハブザパワー。個人の生活でもできる事をやりつつ、コレクティブアクションにつながるような「できる事」も探したいなあと思う今日この頃です。

 

追記:

書いてるうちになんだか壮大な話になってしまいましたが、なぜしがないイラストレーターが、こんな壮大な話をしてるのかというと、まあ、地球に住まわせてもらってるから、気になるんですよね。だって、木々や動物や虫たちがいなくなったら悲しいし、自分たちが住めなくなったら困るし。

https://twitter.com/ClimateHuman/status/1414052039101878274?s=20

赤にこんがらかって

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以前にも紹介したんで覚えてる方もいるかと思いますが、ベント・ファン・ルーイさんという方がわたしは好きなんですが、このビデオ↓が特に好きでよく見ます。好きな物は何度も咀嚼するタイプですみません、お付き合いください。

 

youtu.be

画面の中にところどころ散りばめられた赤の使い方がとてもおしゃれで、見てるとなんだか絵心をインスパイアされるんですよね。見てると次々絵のアイデアが出てきます(↑上の絵はややそのまんまシーンを切り取りましたが、そういう直接的な刺激だけでなく、何か発想のきっかけになることが多いのです)。ビデオ自体も、様々な映像作品やカルチャーのオマージュになってるようで、どれがなにの、と指摘できるほどわたしは事情通ではないんですが、何度見ても楽しめます。

 

赤と言えば、先日小津安二郎の「浮草」を見ていて、この映画(や、他の小津のカラー映画もですが)やはり赤の使い方がいいですね。と、散々言い尽くされたことをわたしなんぞが言うのもなんですが、本当にいいものはいいのだからしゃーない。

 

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まあわたしは映画通とかでもないので、アグファカラーがどーのこーの、みたいな話はしませんが、京マチ子の燃えるような怒りも、ケロっと柔和になるさまも、赤と浴衣の大胆でシンプルな柄が引き立てていますね。小津映画は、家父長制ど真ん中みたいな話が多いですが、そうした現状の有り様を定点観測的に映しながら、最後はさっぱりとその世界が終焉していくんですよね。家族や一座や旧価値観は解散し、新しい世界に移っていくあっけない潔さと少しはかない寂寥を淡々と描いていて好きです。小津映画に添える赤にはそのすがすがしいモダンさがよく表れている気がします(って、書いてるうちになんか通ぶってきてしまいました、はずかし)

 

映画の中の赤と言えば、ゴダールとかフェリーニなどなど昔の映画(漠)には赤がおしゃれに使われててまぶしいものが多かったですね。わたしはおしゃれ通でもないんでお前がおしゃれを語るなって感じなんですが、映画の中のシーンのちょっとした服装などをおしゃれの参考にすることは多いです。ファッション誌を見ても、なんだか自分と縁遠い気がする事が多いというか、「いやいや別にこれわたしには似合わんよね」みたいな冷静な判断力の方が勝つのに、映画の中ですてきな赤いマフラーとか見ると、自分に似合うかとかより「ああ、わたしもあんなのしたいな、こんな風にチェックのズボンに合わせて秋の並木道を歩いたらすてきな気分であろう、うん」みたいな事を思っちゃうんですね。なんでしょ、映画の中は魅力的すぎて幻惑されちゃうんでしょうかね。

 

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絵で赤を使う時は、結構他の色と合わせるのに苦労する、というか、もうなんか、赤と黒だけでいいような気がしてしまう事が多いです。もちろん、青、黄色など同じような明るい色と組み合わせるのもポップでいいし、そういうのも好きなんですが、黒と赤を使っちゃうと、他にはもうなにもいらないかな、と思ってそこで筆を止めたくなりますね。

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ところで、今日のブログのタイトルはボブ・ディランの「ブルーにこんがらかって」のもじりなんですが、この曲、タイトルに「ブルー」と入ってるんですが、曲の冒頭は主人公が赤い髪の女性の思い出を語るところからはじまります。

聞き手は燃えるような赤い髪のイメージから主人公の世界に共に入り、映画の回想ショットのように綴られる断片的な彼の様々な場所と時間のエピソードを体験します。靴を流れる雨筋、暗くフェイドアウトする通り、青空を切り裂いて飛ぶ鳥、横顔を照らすスポットライト、主人公の顔に刻まれたシワの線、解けた靴ひも、など、糸を手繰るようにイメージを喚起する言葉が散りばめられていきます。そして、やがて、彼の青い混沌の中に閉じ込められた流浪の人生を運命付けたのは、ある一冊の詩集により焚き付けられた炎だったというのが明かされていく、という感じで、赤が詩の裏テーマになってるのですね(とわたしは思います、ボブおじさん通でもないんですが)。激しい赤と、透明で寂しい青の孤独のコントラスト、色の構図を目でなく耳で味わえるという趣の歌で、さすがボブおじさん、冴えてるう。一方、冴えてないわたしは今回赤を手掛かりに文章を綴ってましたが、なんていうか、ちょっととりとめのないお話になってしまいましたね。こんがらがっておる。ではでは。

 

 

 

 

 

ブログ引っ越しと旧ブログの「仕事紹介」記事へのリンク

ブログをブロガーからはてな(ここ)に引っ越してきました。

とはいっても、前のブログの記事は残したまま(こっちに全部引っ越してくるのが面倒でした)なんで、向こうも普通に見られます。これからの新規の更新はこちらでやる感じです。今年分まではこっちにも転載しときました。

サイドバーに旧ブログへのリンクもあります。

 

そんでもって、過去の仕事実績紹介の記事だけ特に参照する場合のため、旧ブログの仕事タグへのリンクもつけておきますね↓。

saoriotsuka.blogspot.com

ブロガーにブログを引っ越したのが2007年だったので、2007年〜2021年分、自分で見返してみたんですが、わたし超いっぱい仕事してますね。ここに紹介しそびれてたのもいろいろあったんで、人生通算書籍装画はもう400冊はゆうに超えてるんじゃないかなと思います(...数えてないんですが、仕事生活24年目なので、月平均3冊手がけてたとすると、えーと、ま、もっとありそう)。どの仕事も手を抜かず一生懸命やっておりますが、一時期とか、忙しくてアップアップでした。最近は一時期よりはもう少しのんびりしてます。もっと忙しくしててもよい(というか、まだまだバリバリ忙しくしてたいですよ!)し、アイデアは湧き出る一方なんで、これからもビバ!お仕事ですー。HPのリニューアルが終わったら、今までの仕事からも温故知新でこちらでもっと紹介してみようと思います。