saoriotsuka-diary

イラストレーター大塚砂織の由無し事を綴るページです。仕事の紹介もしますが、ベランダ園芸の話やたわいない話が多いかも。

カルーセルとルサンチマンと松五郎

まだまだ寒いですね。

こちらは3月のカレンダーの絵なんですが、これはJoni  Mitchellの歌、The Circle Gameのイメージがなんとなく頭にありました。

3月というのは卒業など節目もあったりで、月日の流れの無常を感じてしまう季節です。ちなみにわたしの誕生月でもあるのですが、だんだん暖かくなったり芽吹きの予感を感じたり、明るく楽しい季節のはずなんですが、わたしはなんとなくアンニュイです。

 

というのは、小学生の頃に3月には「持久走大会」というイベントがあり、わたしはずーっと「ビリっけつ」だったんですよ。

この「ビリっけつ」というのは、ビリの方なんだよね、とかそういう曖昧なものではなくて、学年で当時は200人とか300人とかいた同世代の子供の中で文字通り「一番ビリ」。最下位。最後のひとり。一番劣ってる人。という容赦ないヤツだったんですね。

今にして思えば、運動が苦手なだけでなく、3月生まれで4月生まれの人とは1年ぐらい差があって、ハンデもあったと思うんですが、まあとにかくこのビリっけつ体験は強烈な劣等感の呪縛を心に植え付け、なんとそれから40年経っても、ひとりの人間の心の中に「わたしはビリッけつのダメ人間なんだよなあ」という深い呪い(?)を残してるもんですから影響は絶大です。(つか、誕生日にこんな暗い話してる陰キャに育っちゃったんですからね、とほほのほ)。

ところで、わたしはイラストレーターとして独立してから今年でなんと27年(!)、それだけの期間、幸運なことにプロとしてなんとかやってこられているということはまあ、周囲の方々の暖かさに助けられてというのもありますが、自分でもまあ、一応は人並みよりはちょびっとは能力があったとか、努力したとか、そういう風に「すぐれた面もあった」と言えるのかもしれませんが、なんのなんの、それよりもずーっと強い劣等感が40年強烈にべったりへばり付いているんですから、幼少期の体験というのは恐ろしいもんです。

おそらく、これが30位とかの人はそれほど心に残る体験ではないでしょうし、逆に1位だった人は幼少の心に大変な自己肯定感の後ろ盾を得て、人生の支えとなったんじゃないかなと思います。

かように、人生とは平等でなくキビしい競争社会なんであるよ、子供とて例外はないのじゃ。つか子供の頃からむしろその無情を思い知るがよい。というのが学校教育の方針だとしたらそれまでなのですが、そもそも、子供の頃にそんなにいろんなことに順位つけるようなイベントしなくてよくない?という気がするのです。

順番つけるとしても、上位の子は称えるのはいいけども、もうなんだったら30位以下ぐらいは「みんながんばったね、まあ、ふんわりこっからは順番数えないで、適当なところで解散ね」みたいな感じにできないもんでしょうかね。すでにゴールした同学年の子供全員が「わたし待ち」でお荷物として出迎えられるあの情けない気持ちを毎年3月が来るたびに思い出させられる、どういう「サークル罰ゲーム」なんでしょうか。

よく自転車競技などでは「タイムトライアル」というタイムを競うレースがありますが、あれなんかは10分おきに一人ずつ出発なんで、せめて「一斉スタート」よりも、少なくとも数字さえ見なければビリッけつは可視化されないようにできますよね。なんで、ああいう感じで子供のレースも一人ずつできんものか。それじゃ時間かかりすぎるか。でもその時間を惜しむことで人に40年越しのタイムスケールで呪いかける羽目になってるんですから、ちょっとは検討してくれてもいいんではないか。ダメ?

つか、戻るけど、順位つけることで「身体動かす楽しさ」とか知る前に嫌いになる効果のほうが高いんではないでしょうか。絵とかもそうです。子供の絵なんか採点しなくていいから!ほんとに。みんな褒めたげて!子供はみんな褒められて伸びるのよ!

 

Joniの歌にも子供が最初に出会う世界のセンスオブワンダーの素敵さが描かれてまして、わたしはそのように、子供のころっていうのは、順位つけるよりまず楽しいこと、素敵なことをあるがままに感じる、「楽しさとして体験できる」っていうほうが大事くない?とか思ったりもするんですよね。

 

まあでも、世の中的には、このような甘っちょろいことを言い出す人に対しては、

『徒競走で順位もつけない「平等」なんて息苦しい、健全な競争心は必要だ。』

というような説も説かれたりします。

確かに、わたしも「この世から全部競争的なものは無くすべき!」ってほどでもないし、競争の中で切磋琢磨磨かれるものがある、というのもわかります、が、でもねえ、それはもっと上の次元、物事を極めようと努力する段階に入った時点でいいのではないかというか、「競争に参加してあえて自分の力試しをしてみたい!」みたいなチャレンジ精神のある人の修養の励みになるものであって、そもそも「別にここのジャンルで競争に駆り出されたくないんだけど」みたいなところまでくまなく競争化、順位の可視化をされるのってしんどくないですか?

しかし、今の時代は子供の頃から望んだわけでもないのに競争に取り囲まれてるというか、受験戦争からSNSのいいねまで、ドラゴンボールスカウター越しよろしく、「あなたの戦闘力は300です、くっくっく、このザコよ」みたいに可視化されまくり社会ってのもね、なんだかちょっと、疲れません?(はい、わかってるんですよ、ルサンチマン全開の話してるなって。まあ誕生日に免じて許してください)

それに、さっきのわたしの「早生まれは体力的に不利」みたいな話で言いますと、競争の場って、必ずしもイコールコンデションで競争させてもらえるというわけでもなくて、環境とか、健康とか、「実は最初っから同じスタートラインに立ってるわけでもない」人もいますしね。

 

さて。愚痴が止めどなく続きそうなんで閑話休題

冒頭のJoni Mitchellの歌に戻りますと、この歌の歌詞は、そのようなわたしの鬱屈したくたびれ中年視線の話とは全然違いまして、さっきもちらっと述べましたが少年が子供のころの「すべてが輝き、驚きに満ちた日々」を経て、やがて大人になっていく、そのはかなさと、それでもまだ若い人の希望を歌っていてるさわやかな歌なんですけども、歌詞の中でカルーセルだったり、乳母車、三輪車など子供を運んでいく「輪」、あるいは季節の「輪」、サークルの廻るさまが、ちょっと映像的に感じられるような、歌詞の流れがあり、とても好きな曲です。

そして、すごく個人的な体験で強引に結びつけますけど、最近「無法松の一生」という映画(三船敏郎版のほう、いえ、前に板妻版も見てはいるんですが)を見まして、その映画の中でも場面の移り変わりに紙芝居的に無法松が引く人力車の輪が、人生の変遷のメタファーとして印象的に差し込まれているのを見ていたら、この曲を思い出しました。

映画の冒頭、主役の松五郎は最初はまさに「無法松」、破天荒な(つかむちゃくちゃな)エピソードで登場するのですが、実は「最初っから同じスタートラインに立ってない」階級制度の時代の中で、人間の善性の美点を持った小さな、繊細な、不器用な人生を歩んだ男であったことが描かれてゆく、儚くも愛らしい、そして悲しい御伽話です。(まあ、なんつーか、寅さんの原型みたいな...?)

で、クライマックスのシーン、そんな松五郎がいきいきと輝くシーンがあるんですが、その躍動感、ああいう「すがすがしさと豪胆さ」を演じさせたら三船敏郎は本当うまいですよね。って、なんだ映画の感想というかわたしが三船敏郎が好き、という話になってしまいましたが、まあ松五郎とサークルゲームの3月の光のような儚いきらめきに免じて、わたしの積年の呪いもそろそろ溶かして、颯爽と4月にのぞみたいものだなあ、などと思うわけです。ではでは。