saoriotsuka-diary

イラストレーター大塚砂織の由無し事を綴るページです。仕事の紹介もしますが、ベランダ園芸の話やたわいない話が多いかも。

明日は読みかけのままに ー 父への追憶 ー

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ホームページもリニューアルしたことだし、もっとブログも書こう、と思ってた矢先なのですが、父が入院したりもあり、ばたばたしてまたお留守になっていました。先日、父を見送ることになりまして、とりあえずひと段落なので、また徐々に通常モードにもどしていきたいと思います。

 

今日はそんなで、ちょびっと父の思い出話をしようと思います。わたしは家族のうちでは父に似ているほうで、似ていると言っても、朝寝坊なところとか、世間の常識にとらわれないマイペースなところ(非常識とも言う)とか、なんだか妙に反骨精神があったりだとか、若干とほほでヘンテコな部分が似ておりました。父も出版社勤務を辞めて自営で印刷業を始め、ずーっと自営業でしたので、そういう自営業気質も、わたしに影響したのかもしれません。

 

あまり子供と遊んだりなどしない人で、よく言えば多趣味、悪く言えば家族を顧みない自分の世界に重きを置く人でした。カメラ、本、ビデオ...なんというか文化おたくの走りですよね。その(家庭より自分の)趣味優先のおかげで、母は相当やりくりに苦労させられたそうです💦。

 

そんなわけで、わたしには直接的な触れ合いの思い出、一緒にどこかに行ったとか、遊んでくれたとかは正直あまりないんですが、父の部屋にずらっと並んでいた個人的な趣味のコレクション、たくさんの本、宮沢賢治や自然科学、ミステリーに英米文学、そして映画を録画するのが好きだったので、様々な映画ライブラリーの背表紙、オペラや音楽のCDなどから、たくさんの文化資本の恩恵を受けたと思いますので、その面では大変恵まれていたと思います。

 

ただ、余談ですが、父のビデオライブラリーの歴史は、記憶媒体の衰退でそれがぜーんぶおじゃんになる、という戦後高度経済成長の資源浪費インフラ変遷の歴史でもあります。いろんな面白そうな映画(しかも今のサブスクにはないようなレアなマイナー名画とか)を保存してたんで、わたしもあとで見よう、と思ってたものがたくさんあったのに、LDやらベータマックスやら8mmやらの記憶媒体だったんで、再生デッキの終焉とともにゴミになっちゃったんですね。ああ勿体無い。

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つわものどもが夢のあと、というか草も生えない規格覇権に翻弄されましたね。

 

さて、父はそんな事は物ともせずにいつも好きな事に邁進しておりまして、取り留めなく知的好奇心があちこち飛んでいた人というか、人生かけた積ん読の未聴ラーだったというか(いや、少しは消化してたと思いますが)、父の部屋を改めてまじまじ見てみますと、相変わらずのコレクションに、ベッドの横にはNEWTONの付録のでっかい元素番号表が貼ってあったり、真新しい「世界一美しいフクロウの図鑑」があったり、大学時代研究したフォークナーのコレクションがあったり、パソコンのそばには作りかけのライブラリー目録があったりで、きっと頭の中には「いつかこれをまた読もう、これをしよう、あれが知りたい」がまだまだ詰まってたのではないかと思うと、心残りがいっぱいだったろうなと思います。入院時に母に言ったことには「入院中の新聞をとっといてくれ、あとで読むから」とのことでした。その後、新聞を読めるどころの容態ではなくなってしまい、そのままだったのですが。

 

子供の頃、父の部屋兼居間に並んだたくさんの本やビデオ背表紙を眺めながら、「中にどんな事があるんだろう」と思いを巡らせたのがわたしの想像力の原点だったのかもなあと思います。そう思うと、やはり父の影響は大きく、もっと話をしないうちにお別れになってしまってさびしいですね。時間はいくらでもあったのに、ぼやっとしてるうちに、読みたい本は読みきれず、大事なことは何一つ話さないまま、人生はタイムオーバーになってしまうのかもしれません。わたしも、本棚にあった中央公論の世界の名著シリーズとか、いつか読みたいと思ってぜーんぜん読んでないんですが、死ぬまでに読む事ができるだろうか、うーむ。また、以前にも書きましたが、父の本を読み始めると、中に割とあれこれ書き込みがあったりするんですね。これからも、ふと手に取った古い本の中で、ふと父のひとりごとに出会えることもあるのかもしれないと思うと、うかつに本も手放せないなあとも思います。まだまだ開いていない、先の分からないページが人生にはあるのですが、開かないまま終わってしまう、そんなこともたくさんありますね。

 

先日、母と昔の写真を見ておりましたら、そんなわけで家族で出かけたことも少ないのですが、数少ないお出かけイベントの写真を見てると、父がカメラマンですので父の写真はほとんどないのに気付きました。母が言うには「父はいつもでっかいカメラのセットを持っていてカメラにかまけていたので、子供をおぶったりなどの世話はしてなかった」そうですが、まあそのカメラセットのおかげでこうして他の家族が思い出話に花を咲かせられる写真が残ってたりもするもので、愛情を表には出さなかったのですが、多少はやはり家族の時間を父なりに楽しんでいたのでしょう。(そのぶん母には苦労が多かったようで、ビタースイートな思い出話がアルバムからぽろりとこぼれてきたりもするんですが...)

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父が撮った母とわたし。母の手作りの服が懐かしいですね。

 

父は入院以来、コロナ情勢で家族との面会もままならぬままずっと一人で病院にいる事になってしまい、心細く孤独な闘病を2ヶ月も過ごしました。どうしようもない事ではあったのですが、やはり家族としてはやりきれない気持ちというか、人生の最後にひどくかわいそうな事をしたと様々な後悔を感じています。しかし、最後の最後の晩に、意識を失ってからではあったのですが、病院の計らいもありやっとなんとか病院から自宅に戻ることができました。深夜に自室のベッドで静かに呼吸するばかりの父の傍にいて見守っておりつつ、何も音がないのも寂しいなと、ふと父のテレビをつけてみると録画リストの中にサイモン&ガーファンクルのセントラルパークコンサートのビデオがありました。わたしは子供の頃、父がかけてた影響でサイモン&ガーファンクルが好きだったもので、それを流しながら父の手を握っておりました。流れてくる「Homeward bound」の歌詞に耳を傾けると、入院中ずっと「家に帰りたい」と言って先生や看護士さんを困らせていたという父の気持ちが歌われているようで胸が詰まり...。父にとって、まさに、家は好きなことに囲まれた心の逃避地であり、愛しい人が待つところだったのだろうなあと。お父さん、やっと家に帰ってこれてほっとしたね。少し、遅かったけども。