saoriotsuka-diary

イラストレーター大塚砂織の由無し事を綴るページです。仕事の紹介もしますが、ベランダ園芸の話やたわいない話が多いかも。

じゃがいもが微増した話

 

 
 
台所の野菜カゴの中で、芽が出たじゃがいもが転がっていたのを発見する事、まあまあありますよね。大抵は芽を取りのぞいて食べますが、前回それを見つけたのは3月の初めでありました。3月の初めといえば、じゃがいもを植えるちょうどよい季節。よく栽培指南には「食用のじゃがいもは病気があったりするので種芋に使わないように」とのお達しがありますが、ベランダで一鉢で育てるなら、周囲に病気が広がったりするわけでなし(※)、育ててみちゃおうかなー。こんなに勢いよく芽吹いちゃってるしなー。少し暖かくなって園芸熱も温まるこの時期、考えたらオラ、ワクワクしてきたぞ(使い古された言い回し)。というわけで、植えてみました。

 

しかし前にも書いたように、うちのベランダは日当たり好条件の一等地が少なく、しかもその時空いてる鉢にちょうどいいのがなくて、ちょっと小さめの8号鉢だったので、うーん、どうかなあ...。と思いつつ植えたのです。

じゃがいもを植える時は土があまりアルカリに傾くと、そうか病という芋の皮の表面ががさがさになる病気がでます。なので、石灰は撒かず、使い回しの土にコンポスト腐葉土、油粕、少し草木灰など入れて植えました。前に畑で育てた時は少しそうか病出たんですが、味は全然変わらないので、商品にするとかでなく自家消費する分には気にしなくていいんではないかなと思いますけど。畑ではじゃがいもはごろんごろん大収穫でホックホクでした。ああ、楽しかったなあ...畑。

さて、しばらくすると、案外しっかりした芽がぐいぐい伸びてきました。おっ、これは幸先良さそう。 

 

 

 

 けれども、悲しいかな、いい感じの場所を用意してあげられず、こういう感じで配置しておりました。

 

 
 育つにつれて日照を求めてアクロバティックムーブになってきており、風も激しいんで、大丈夫なのか。すまんね、いいところがなくて💦

 


 育ってくると芽かきをして、茎を2本ぐらいにするのがよいのですが、ここの超強風環境で、茎を少なくしてからもし風で折れてしまったら全滅の可能性もあるので、ここは3本残しておきました。人生リスクヘッジ

 

5月になり、花が咲きました。じゃがいもの花といえば紫色のかわいい花なんですが、この苗の花は小さくて白い花でした。えーと、品種、なんだったっけ...覚えてないけど、つまり男爵やキタアカリではなかったのだな。花をつけたままにしておくと芋が太らないので摘みました。(すぐ摘み取っちゃったんで写真はありません)

じゃがいもの芋は種芋より上のゾーンにつくんですね。 なので、表面に芋が出てきてしまうと、日に当たってソラニンが形成されてしまうんで、土増しをします。できてるのかしら、芋...と思って土の表面を軽く掘ったら、塊に触れました。あっ、いる!芋、いる。ニヤリとほくそ笑んで、あわてて土をかぶせておきました。

 

6月、そろそろいいのでは...。雨続きになるとの予報の前に、ちょっと早いですが掘り上げてみました。 

 


 

 

おっ、いっぱいありそう!

と、思ったんですが、残念、ここに見えてるのがめぼしいやつ全部だったんですねー。

というわけで、結果、これだけ収穫できました。

 

 食べれるサイズは3つ。1個は結構大きかったです。まあ、鉢も小さいし、悪条件だったんでこれだけ採れれば良しとしましょう。

 

小さいのはソラニンが多いらしいので、食べるのはよしておきました。また埋めて種芋にできるのかしらん?まあ、育たなくてもコンポストしとくかな。

 

そして、何にして食べようかしら。今一番食べたいもの、そうねえ...。コロッケ!

大豆ミートと玉ねぎみじん切りを炒めて、レンジで蒸した芋(ちなみに、ガスで茹でるよりレンジで蒸した方が環境負荷低いらしいです。うちは電力会社が再エネ100%なので余計そうですね。まあ、他でいろいろ環境負荷かけてるんで焼け石に水感はありますけど💦)と合わせて水溶き小麦粉(卵なしでもこれでいけます)とパン粉をくぐらせコメ油でフライパンで揚げ焼きにしました。ついでにズッキーニも揚げた。アゲアゲ。

 


 

 

ああ、揚げ物ってなんでこんなにおいしいのかしらね。罪なやつよのう。

ところで、ここにあるこれ、なんだと思います?

 

 
よく揚げ物するときに、パン粉とか溶き粉とか微妙に余って「なんかもったいないな...」となるので、わたしはそれらを一緒にしてハーブとか塩とかで味付けして、少しベーキングパウダーを入れて団子状にまるめて揚げてしまいます。ベーキングパウダーを入れるとふんわり仕上がりますが、入れないとカチカチな感じになってうまくないです。このよく分からない謎の揚げもん、まあ、すっごいおいしい、とかでもないんですが普通においしく食べられるので「アンチフードロス食」としてはまあいいんじゃないでしょうか。

 

というわけで、二人でこの量食べちゃいました。我ながらよく食べるね、うん。ああうまかった。育てるのは4ヶ月近く、食べちゃうのは一瞬。あっけないものですねえ。とはいっても、基本は水やりだけしてほったらかしてれば、勝手に育ってくれたんだから、ありがたいもんです。本当芋ちゃん、えらい!あれ?芋の品種、結局分からずじまいだったな...。

 

 

市民農園や畑など共同で土地を使ってる場所では病気を広げる可能性があるので、やはり食用芋を種芋にしないほうがいいですね。

ミネルバのふくろうは楽しい方に飛ぶ

 


 

また今夜もやつが涙を目にいっぱいためてわたしが恋しいとメールしてくるのである。ごめんよ...今日もやる時間なかったぜ。というわけで何の話かというとDuolingoです。Duolingoはネットやアプリで無料で利用できる語学学習アプリで、しばらくやらないと催促のメールが来るのです。

 わたしはフランス語を10年ぐらい習っていたのですが、コロナ禍で通学が難しくなってしまい去年止めてしまいました。人間の脳というのは一体どうなっておるのか、学ぶ時にはあれだけ時間をかけたのに、消え去るのはあっという間。あーもうなんだっけ、活用とか、綴りとか、瞬く間に露と消えてしまったので、こりゃいかん、と時々Duolingoで復習しています。それと、オランダ語に興味があるので、そちらも時々。

 

Duoは初学者向けなんで超簡単な所から入りますし、低レベルの所での繰り返しも多かったり、それをスキップしようとテストをやると、Duo例文に沿った回答でないとバツにされたりするんでなんか結局簡単な所をぐるぐるやる羽目になってしまったり、などもあるんですが、ちょこっと勉強するのにはよいです。フランス語の復習には全然物足りないけど、全然知らないオランダ語の勉強にはちょっといいかも。なにせ、まったく読めない暗号みたいなものが、なんとなく続けてるうちに一応意味をなした文として解読できるようになる、というのはちょっと楽しいものです。そして、Duoの一番いい所は、大した事もしてないのにやたらとほめてくれる所です。勉強って、怒られたりけなされたりしながらやると楽しくないですよね。

 

わたしがフランス語を始めたのはそもそも、一日中仕事机にへばりついてるだけの毎日にちょっと疲弊してたので気分転換の時間を作りたかったのが動機でしたが、それでフランス語を習得できたのかというと、結果からいうと、別に仕事で使えるとかそういう風には全然ならず趣味レベルでしたので世間的に言えばやってる意味は全くなかったとも言えます。が、「勉強における恥をとっぱらう」という経験ができたので、わたしにとっては非常に楽しく身になりました。この、「恥」っていうのが人生のネックだと思うんですよね。

英語って、たいていの人は義務教育期間で6年〜ぐらい勉強してるはずなのに英語を発語する事が恥ずかしくないですか。わたしは長らく恥ずかしかったです。だって、間違ってたりしたら、恥ずかしいもーん。しかし、フランス語教室に入ったら、クラスメートも全員デヴュタン、初心者。「できなくて当たり前」であり「話せるようになりたい気まんまん」であり、つまりは人生で初めて、お互い恥ずかしいとか考えずに外国語を気軽に話せる場だったのです。また、先生も決して人の発音や間違いをばかにしたりせず、怒ったりさげすんだりもせず、淡々と必要な事を必要なタイミングで教えてくれ、要所要所褒めたり補足してくれたりと非常に優秀な先生たちでした。発語するのが怖くない。これってすごく大きなパラダイムシフトで、おかげでフランス語だけでなく英語を話すのも(下手くそさは変わってませんが)ハードルがかなり下がったと思います。というか、語学に限らず、「自意識を棚に上げて興味や目的に集中するといろんな事がラクで楽しくなる」みたいな気づきがありましたし、副次的効果で、かなり人見知りな方だったんですがそれも少し軽減した気がします。

学校教育の初学って、それと真逆な面が往々にしてあって、体育とか、図画とかでも、興味を持ったり楽しんだりする前に「人と比べてお前は劣っている」みたいな事を白日の元に晒すような体験の方が学習そのものよりも多く積み重なっちゃってませんか。でも、考えてみると、その道のプロになるとかでない場合、学習って「物事を理解会得する事で自分の人生をより便利にしたり、豊かにする」のが目的なわけで、「必要なものを必要なだけ」学ぶなら、人と過度に比べたり競争したり劣等感を持ったりなんて、それこそ必要ないのでは。と思うのです。

わたしは絵を描く仕事なんで、よく人から「絵が描けていいですねー、わたしなんか本当に下手で、絵心なくて」と言うような話を聞きます。で、そういう人が絵を描いてみると、別に全然下手じゃなくて、わたしなんかよりむしろ新鮮で味があるいい絵を描いたりしておりびっくりする事があるんですが、そうなると

「誰じゃこの人に余計な劣等感植え付けたのは」

って気分になる事が多いです。実際、学習上で「先生に怒られた」「皆に笑われた」的な経験を持つ人の話も多々聞きます。基礎教育ぐらいのまだ「お試しパック詰め合わせ」的な勉強段階でその人の心に傷をつけ、必要なスキルでなく一生もののコンプレックスや自意識の壁を教育してしまうのだとしたら不幸な事ですよね。...ええ、わたしの場合、体育なんて大っ嫌いですとも、今でも。ぐすん。

しかし実際、今これを書きながら「こんな低レベルな話を語学ペラペラな人に読まれたら恥ずかしいな」みたいな自意識とやや戦ってるので、学習における「恥」の呪縛はなかなか強いとひしひし感じます。「ネイティブはそんな事言わない」とか、デキる人(?あるいは教材ビジネス?)からのダメ出し言説も世に溢れていて、脅してくる圧が高いですしね。まあここで「勉強サクセス術」なんてものを期待して読んでる人は皆無だと思うのでそんな圧を感じる必要はまったくないはずなんですが、それでもちょっとそんな風に思ってしまう、これこそ呪いの深さよ。おお怖。 

というわけで、たいていの人は初学段階では「ほめられた方が伸びる」というか、苦手意識をいかに植え付けないかが幸福の鍵なんじゃないでしょうか。キビシイ鍛錬とか、そういうのは学習意欲が十分育ってからの話なんじゃないかなというか、なんにつけ、そもそも学びを深めれば自分のクオリティに一番厳しくなるのは自分なんじゃないかなとも思いますし、深い習熟の道に入った後には挫折や苦しみはありますけど、アペリティフぐらいの勉強ならば、ちょこっとマイルドでテイスティな方が手を伸ばしやすいですよね。

 

まあ、でもDuoみたいに甘やかしだけだと、ついつい忙しさにかまけてちっとも勉強しないんですがね。だらだら生きてるくせに、いつも時間がないのであった。Pourquoi?

花香さんのショップカードのお仕事

フラワーアレンジメントショップHANAKA(花香)さんでもう大分前にショップロゴを作るお仕事をしたのですが、このたびショップカードなどをリニューアルするとの事で、またご注文いただきました。ドライフラワーはシンプルなので、添えるものも雰囲気を合わせてあっさりとした線画の軽いタッチのイラストをあしらってデザインしてみました。

名刺大のショップカードと、ハガキサイズでご購入者さんへのサンキューカード的なものも作りました。こちらはドライフラワーのピースをちょこっとあしらったり、デザイナーのkaoriさんが一言メッセージを入れたり出来るように空間を大きめに作りました。

 


 

お日様の香りがする、シックで大人かわいいドライフラワーを手がけているHANAKAさんのはこちらです。

HANAKA 公式HP

HANAKA kaori_hanaka Instagram

オンラインの他にもアトリエもあり、ワークショップなども開催されています(ご興味ある方は詳細はコロナ情勢なので開催時期などはお店にご確認いただけましたらと思います)

 

普段人物を描く機会が多いのですが、こういう仕事も楽しいですね!わたしは、自分ではそんなに意識して画風を描き分けてるつもりはなくて、まずはひたすら万年筆ですらーと描きたい線を描いていて、仕事の内容に合わせて最適かなと思うアレンジでアウトプットしてるので、全然ジャンルの違う仕事をいろいろしてたりします。基本の線画の画風はそれほど変わらなくとも、構図や色数、描く対象、指示の状況や説明的なイラストかイメージ中心のイラストか、など、アレンジで絵は変わってきますよね。

HANAKAさんが様々な素材を使っても、常にHANAKAらしいセンスですてきなアレンジメントを作るように、わたしも様々な要素や条件を取り入れつつも最終的に一貫した自分らしい良さを出せる作品を作り続けて、科学書からおしゃれ、文芸、実用ナドナド、縦横無尽に万年筆を走らせたいなあと思います。ご依頼の際には、どういう仕上がりの感じがご希望かHPにある絵などでお気軽にお知らせくださいませ。 

仕事紹介です


 光文社さん「コミュ障でビビりなリーダーでも、部下を思うように動かせる本」という晴瀬ワカルさんのご本のカバーを描きました。コミュニケーション障害という言葉は医学的な意味での障害を表す他に、近年では「コミュニケーションが苦手」という通俗的な意味でも使われており、こちらでは後者の意味でのコミュ障ですね。他者が誰かをコミュ障だ、とあげつらうのは良くない事と思うのですが、自己申告で「コミュ障」と言う方が増えているというのは、それだけ他者とのコミュニケーションに困難を抱えていて、そういう自分の状態を人に理解してもらいたい、理解してもらえないとしんどい、という状態の人が多いという表れなのでしょうね。(他人事みたいに書いてますが、わたしも感じる事多々です)。コミュニケーションが苦手でも、他者と円滑に仕事を進めたり、お互い快適に生活を過ごせるよう相手に配慮できるようになりたい、という時、そのノウハウを公開してくれるこういう本がヒントになって多くの人が助かるといいなあと思います。

  

今年1月より「経営者の四季」という経営者さん向けの月刊冊子の表紙と中の連載のイラストを描いています。

 表紙の下の方は配布部署ごとに差し替えになるので空欄になってます。

毎回連載の内容と表紙が連動していて、テーマに沿ってイラストのご指示をいただいています。

他にも連載などもありつつあれこれ描いてるのですが、一回のブログが長いのも読みにくいので、それはまたおいおいに(おいおいなのかい、オイオイ)。

 

わたしはだあれ、あなたはだあれ

最近夕飯を食べながらスタートレック宇宙大作戦を見ています。わたしは全然トレッキーとかではなく、地上波やケーブルで流れてたのをなんとなく見てた人なんで、宇宙大作戦ピカード船長のシリーズと映画をいくつか、しか見てないんですが、最近NETFLIXになんでもそろってるんで、せっかくだから徐々に制覇してやろうかしらん。というか、まず宇宙大作戦も全編ちゃんと通して見たことがなかったんで最初から最後まで見ようということなんですが、始まってここ10回ぐらいで、話のパターンが基本的に1つか2つという予定調和世界なので、安心して(?)毎回「あーこうなってこう終わる」と思ってのんきに見てられますね。

 

 ここ10回ぐらいのテーマは全部「人間性の変貌」への恐れに基づいており、ようするに

「あの人はなんか人が変わってしまった」

という感覚は宇宙時代になっても人間の心に不安をもたらすのですね。昔から「ジキル博士とハイド氏」など、人間の二面性を描いた恐怖のお話ってありますし、ゾンビなんかもそのバリエーションですよね。SFでは「外側から見るとあの人なのに、実はそうではなくなっている」というパターンのお話が多い感じがします。エイリアンとか遊星からの物体Xとか乗っ取り系のお話です。明らかに人が違っちゃうのも怖いけど、「あれ、なんかおかしい...」みたいな不信状態も結構ヤです。さて、スタートレックでは、どっかの星に一人遭難とか隠遁してた人は大体人が変わっちゃってますし(このパターン多すぎ)、または、カーク船長が二人になっちゃった!とか、感染症になって人が変わっちゃったカーク船長とか、洗脳されてお色気に幻惑されるカーク船長とか、カーク船長のアイデンティティの危機が続くので「こんなに毎回翻弄されるうかつな船長で大丈夫なのか」と船員に思われそうな気もしますが、毎回次回になるときれいさっぱり話がなかった事になり船長への信頼は揺らぎません。

 

しかし、考えてみると、その人の「その人らしさ」ってなんだろうな、とも思います。例えば、自分だって久しぶりに会った人には「なんか昔と変わったね」とか思われている事があるだろうし、このSNS時代、いくつか別のSNSを使ってたりすると、いや、別にSNSに限りませんが、所属する場所や人間関係の輪ごとに若干自分が他人に見せる面というのは違ってくるというのは日常経験している事ではありますよね。人間が相手の事を100%理解する事も不可能ですしね。そこでSFなどでは、その分かり合えない人間同士の不安のリリーフに、スポックとかデータとか「(基本的には※)感情的にゆらぎない状態でいる相棒」みたいな存在がいて、視聴者に安心を与えるという寸法なのですね。銀河ヒッチハイクガイドのマーヴィンも、常にネガティブですが、ネガティブであるという意味においてとても安定した存在でほっとします(するか?)。こういう相棒キャラの配置という図式は、革新的宇宙時代においても人の心には「変わらぬものにいてほしい」という若干保守的な願望もあるという表れなのかもしれません。というか、SFだけでなく日常で、テレビで見ているタレントさんとかはそういう役割、「キャラ」を求められている存在でもありますね。

 

まあ、でも、やっぱり人間はそういう存在になれないというか、人間は「キャラ」ではないゆらぎある複雑な存在なわけで、「キャラ」という概念に慣れすぎるのも、もしかして人間同士の付き合いには障壁を作るのかもしれないな...とか思ったりして。人間は孤独な島ではないが、不変のキャラでもないのである。というわけで、この人はこういう人であってほしい、という自分の思い込みや期待が相手に負担をかけるという局面もあるかもしれず、気を付けたいなと思ったり。まああと、政治家とか、キャラとして見ちゃダメな人をキャラ扱いしないように気をつけないとね、とか。

 

ところで、にしても、エンタープライズ号には防疫の概念がなさすぎる。見知らぬ星にあんな無防備な格好で行っちゃダメ!わー宇宙の謎物質に素手でベタベタ触らない!とか、このコロナ禍で見るとつくづく思います。2021年、それはもうSFよりSFの世界なのであった。

 

※実際のところスポックもかなり感情的でいろいろやらかしてますし、データも感情チップとかつけちゃいますけどね。

瞠目のひょわひょわパワー

 


 

(イラストはイメージですので実際の登場人物や場所とはやや関係ありません)

今年は5月半ばからすっかり梅雨みたいな日々が続きましたね。...って、わたしは大変納得してないのである。わたしの5月を返せ!そもそも、うちのベランダ環境では、春先は激しいビル風が吹き荒れ、しかも日照区画が少ない(秋には日が当たるんですが)ので、春の楽しみであるところの種まきから芽生え、みたいなのが全然うまくいかない秋作専門環境なのですが、今年はそれだけでなく、4月には冷害、5月は強風と雨続きなもんで、いつもにもましていろんな野菜がうまく育ちません。暴風でしわくちゃになったサンチュやウドンコにやられ貧弱なスナップえんどうを恨めしく眺める今日この頃。

 

風でボロボロ。

 

 


 

ところでこっち↑は蒔いてないのに種が飛んだ玄関先のサンチュなんですが。このお方が一番いきいきしている。軒を貸して母屋をとられている多肉。

コンポストからうじゃうじゃ出てくるかぼちゃも。生えるだけは生えるんですよね(その後は場所がなくてうまく育たないけど)。

 


 

 

人間の思惑など、あさましきものである、と嘲笑うように予定外のものが元気。

 

ここでの園芸歴はもう20年以上なので、野菜以外の園芸植物はこの環境に順応した強者どもだけが生き残っています。

 


 

適応された方々。クレマチスは年々お化けみたいにでっかくなって手に負えないし、このゼラニウムは挿し木で増えに増えまくって、いいんだけどなんかこのお方だけになりつつあり、ベランダ内から多様性が減っていくので若干複雑な気持ちです。

なんですが、わたしはもっと野菜を育てたいのである。でも、野菜はなかなか難しいのでありますね。ままならぬものよ。とはいっても、いつも健やかに育ってるものもあります。スプラウトです。

 


 

 

スプラウトというのは一般的に室内で水耕栽培するものと相場が決まっておりますが、どうもわたしは室内水耕栽培はあまり得意でなく、すぐ水やりを忘れて干からびさせたり、逆になんかどーも腐ってきたような...みたいなことが多いので敬遠しています。(豆苗の2回戦目は別ですが。あれは簡単)。

翻って、先ほどの「予定外のものの方が育つ」話に戻りますが、ベランダという過酷環境下では、スプラウトにするつもりなど毛頭なく「でっかい苗に育っておくれ」と種まきしたものが悉くスプラウト化するんです。去年まで市民農園を借りてた(※)んですが、あれはいいですね。ラディッシュとか、適当に蒔いておけば、ふくふく太ってくれたんですから。

 


 

偉大なり太陽。豊かなり土壌。それに比べて、ベランダじゃあこうです↓。君らはスプラウトじゃないんだ。ラディッシュなんだ。ひょろひょろしないでどっしりかまえるんだ。 (風に負けないように過保護にして一等地に住まわせているにも関わらずすでにスプラウト化のきざしが...)

 


 

 ああ、日当たりの悪いベランダよ。悪条件しかないベランダよ。なぜにわたしは土地を持っていないのか、貧しき我を嘆くのみ。

 

と嘆いてる場合じゃありません。なんでもスプラウトになっちゃうなら、スプラウトを育てるのにうってつけなのではないか。と気づいてから、わたしの人生はスプラウト長者です。日が当たらない、風も当たらないような超隅っこのどうでもいい区画が緑あふれる空間に!しかも食べ放題!というわけで、同様の悪条件でお悩みの方にオススメです。土も、スプラウトが生えるぐらいの短い時期なんで、そんなに取り替えたりしなくても連作でいけます。収穫時は引っこ抜いて土を払って、根っこをはさみで切ってよく洗い、その日のうちに食卓へどうぞ。

いくつか注意としては、すべての種がスプラウト化できると言えど、苗用の種は消毒してある事もあったりするので、スプラウト専用の種を使うが吉と思いますのと、土は動物性堆肥が入ってない土がよいと思います(スプラウトだけの話ではないのですが、未熟な動物性堆肥には病原菌感染のリスクがあるんで、

https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010892407.pdf

特に家庭では生食用野菜には使わないほうがいいのかもしれません。まあ、スプラウトはもともと肥料いりませんし。ちなみにわたしは菜食で自宅で出た野菜くずをコンポストにしてるので動物性堆肥・肥料は全然使いません)。梅雨の鬱陶しい日々もなんのそのでできるスプラウトライフ、皆さんもいかがですか?って、別に勧めるほどのことでもないですけど。

 

 

 

※...(ところで、残念なことにうきうき市民農園ライフは借地期限が来てしまい、また抽選に応募しようと思ったんですが、仕事が忙しくなるとすぐ親に世話を任せっぱなしにしてしまう自分の無責任さを反省して今回はパスしました。ああ、無念)

きれいにするということは

 


ブラシの木の季節ですね。わたし、ブラシの木って、ヘアブラシの事だとずーっと思ってて、ヘアブラシには見えないよなあ、と思ってぼんやりとこの年まで生きてきたんですが、ふと英名を調べると、Bottlebrush plantsというんですね。

 


 

言われてみれば、それだよ!それしかないよ!って今更気づきました。きれいな花なんだけど、きれいにするほうのものに似てるのだった。人生って長く生きてても知らなかったり勘違いしてる事で満ち満ちていますね。おほほ、はずかし。そのブラシの木(ちゃんとした名前だとブラシノキですが)、カリステモン属でして、カリステモンというのはギリシャ語で「美しい雄しべ」という意味(by wikipedia)で、このブラシの赤いほわほわは雄しべなのであり、よく見ると雄しべに混じってひときわ長い雌しべがぴょいぴょい出てたりもするんですね。種は集合恐怖の人にはけっこう厳しいビジュアルな感じもしますが、故郷のオーストラリアでは、この硬くつぶつぶした種子たち、山火事などがあると弾けて撒かれるようです。しかし、最近のように山火事が多いと、撒かれてもまたすぐ若い木が焼かれてしまいそうでちょっと心配ですね。どうなんでしょうか。山火事の跡にすぐ生えてくるきのことかもあるそうで、そのきのこは逆に普段はじっと菌糸として待機してたり、自然というのはいろいろ不思議なもんです。というか、なんでこんなにボトル洗いブラシに似てるのか。人間が模倣したのかしらん。

 

ところで、ボトル洗いといえば、よく醤油とか調味料のふた、洗って捨てる時、分別して捨てたいのに分別できないものってありますよね。蓋の部分を引っ張って、くるっと剥いて外す、という方式のヤツ、どうもうまく外れないものも多くないですか。こうなっちゃうと、もうペンチとかないと外せなくて困ってます。

 


 

また、ボトルのふたなど、環状に閉じたプラスチックごみは必ずハサミで輪を断ち切ってから捨てるようにしています。

 


 

分別しているとはいえ、物事なんの偶然と因果で最終的に海のウミガメやらカモメのくちばしやらにすっぽり納まってしまうとも限りませんからね。というか、自分が分別してきちんと捨てて、家の中から消えてああきれいさっぱり、と思ったら、自分の家じゃない所が大惨事。そういうのちゃんとなってると勘違いしていたよ!というような事がこの高度分業型資本社会には満ち満ちていますので、それこそ人間活動の後始末は環状に閉じたサイクルで自然にはみださないようになるべくできるといいのになあと思います。こういう輪を切りながら、この輪にすっぽり入ってしまう生き物ってなんだろか、とかお腹いっぱいこれを食べちゃってる鳥やら魚やら想像しだすと、やるせない気持ちになってきます。せめて全部同素材で同色とかに規格統一してマテリアルリサイクルとかしやすくする、とか、使用を減らすいいアイデアとかないものかなあ...。ぷちん。とかモヤモヤ思いながら切ってます。便利だからこそ使われてるわけで、これがないと困るよ、という局面もまだまだあるとは思うんですけど、減らせるところは減らせるといいですよね。こう、なんか、システムの中のボトルネックになってる部分もぷちんと切れないものかしらねえ...。と、なんか話が脱線しましたね。 ではでは。

はまってる外側から見る

ウォールデンに住んだら忙しくて仕事どころではない

仕事以外の気分転換というと最近はもっぱらひとけのないところを小一時間ぐらい散歩する事なんですが、ちょっとした林の中を歩いてるだけでもいろいろ発見があります。「苔は木々の北側に生える」と歌った歌手もおりますが、ほんと、そういう事がこまごま気になり、分かると面白いもんです。例えば、この絵の中で言うと、この林は左手が南向きで、木々はやっぱりそっちのほうになんとなく向かって生えてるんですね。また、手に持ってる枝のきのこ、枝は地面に落ちてたんですが、きのこというやつは光合成を全くしないわけで、では何をめざして彼らは成長してるのかというと、彼らが感じているのは重力なわけです。ニコラス・マネーという人の本に書いてあったんですが、きのこにとって重力は非常に大事で、それは傘から胞子を落とす為だそうです。胞子が下向きに発射され、それが風にのりどこまで飛ぶのかが重要なのです。というわけで、このきのこが生えてる枝は右側が地面に接地してたのですね。

 

 最近林でよく悲しい発見もします。神奈川県一帯ではここのところ、大規模に「ナラ枯れ病」が発生しており、公園に行くたびに枯れたナラが切られちゃってるんですが、うちの近所の谷戸山公園という場所では、なんと250本以上ものナラがやられてしまって、林がすっかすかになってしまっています。「風の谷のナウシカ」で、風の谷に飛行船が墜落したせいで村の果樹園が腐海の胞子に飲まれちゃって、「ああ、この木も...」みたいな絶望シーンがありますが、まさにあれなんですよ!どうしてくれるの!そのナラ枯れ病はなんで起きるかというと、カシノナガキクイムシという虫が木を食害する際に、彼らが「ナラ菌」を運んでしまう伝染病なんですね。というわけで、伐採と消毒が行われてるんですが、カシノナガキクイムシには天敵はいないのかしらん、と思ったら、ルイスホソカタムシという、まあ同じ木を食べる種類なんですが天敵がいるそうです。また、コゲラとかそういう鳥たちもつついて食べたりするのでは、と思うと、殺虫剤を撒いて対策、というのは対処療法ではありますが、なんとなく根本解決的には鳥や虫など多様性を減ずる方向ではなく、増やす方向の方がいいんではないかなあ...。と思ったりもします。

 昔、散歩中に出会った自然派カメラマンっぽいプロっぽい人(なんじゃそりゃ)が、昔に比べてこの公園の動植物が減ってるのである、君らも気をつけて見てみるがいい。と言ってましたが、わたしも公園散歩歴は長く、実感としてそういうの、感じるんですよねえ...。少なくとも、きのこは減ってる感じがします。きのこというのは、土壌中でワールドワイドウェブならぬ「ウッド・ワイド・ウェブ」を形成してて、要するに菌根菌ネットワークで木と密接に関わりあってるそうです。世界の大樹、長寿樹を調べると多種のきのこと菌根菌で繋がってるとかいないとか。多様性マスター、きのこなくして世界なし。というわけで、散歩しながら足元の菌根菌に思いを馳せているのですが、端から見るとただ下を向いてぼんやりうろうろしてるヒマ人風情満開の人です。まあ、ソロー先生も日がな1日ありんこの戦いとか眺めて過ごしてちっとも悪びれなかったですしね、自然観察はとにかく飽きませんし、その事について書かれた本を読むのも超楽しく、そんな事ばかりしてると仕事時間はいったいどうなってるのか、というと仕事もするわけで、結果的に慢性睡眠不足です。しかし、マスクして森を行く(たまに人とすれ違うんで、やっぱり用心しています。すっかりマスクに慣れましたねえ...)現代のこの状況を見たらソロー先生は何を思うんでしょうねー。自然をないがしろにしたせいである、と喝破しそうですね。うん。

イラストレーションファイルなどお知らせと、久々のアレ

ちょっと前の話になりましたが、今年も玄光社さんのイラストレーションファイル2021にご掲載いただきました。 また新しいお仕事との出会いを楽しみにお待ちしております!

 

画像画像 

 

それと、先日、パレットクラブスクールさんの卒業生インタビューを受けました。わたしは一期生なのです。いやー、懐かしいような、ついこないだのような...。(クリックでページを開きます)

 

パレットクラブニュース 2021


 ところで、コロナ状況のため、ここ一年以上美容院に全然行ってなかったんで、これらに顔写真が必要だったのですが髪がぼさぼさの伸び放題のまま写真に収まってしまいました。あとで見てさすがに反省したので、その後セルフカットしてみました。出来はともかく、髪を切ると気分がすっきりしますね。出来はともかくなんですが...(コロナ状況で人と会わないのが常態化しているため、自分の中でなにかいろんなハードルが下がってる気がします、ま、いっか)

 

今日はところで、まんががあります。(クリックで拡大できます)