saoriotsuka-diary

イラストレーター大塚砂織の由無し事を綴るページです。仕事の紹介もしますが、ベランダ園芸の話やたわいない話が多いかも。

わたしはだあれ、あなたはだあれ

最近夕飯を食べながらスタートレック宇宙大作戦を見ています。わたしは全然トレッキーとかではなく、地上波やケーブルで流れてたのをなんとなく見てた人なんで、宇宙大作戦ピカード船長のシリーズと映画をいくつか、しか見てないんですが、最近NETFLIXになんでもそろってるんで、せっかくだから徐々に制覇してやろうかしらん。というか、まず宇宙大作戦も全編ちゃんと通して見たことがなかったんで最初から最後まで見ようということなんですが、始まってここ10回ぐらいで、話のパターンが基本的に1つか2つという予定調和世界なので、安心して(?)毎回「あーこうなってこう終わる」と思ってのんきに見てられますね。

 

 ここ10回ぐらいのテーマは全部「人間性の変貌」への恐れに基づいており、ようするに

「あの人はなんか人が変わってしまった」

という感覚は宇宙時代になっても人間の心に不安をもたらすのですね。昔から「ジキル博士とハイド氏」など、人間の二面性を描いた恐怖のお話ってありますし、ゾンビなんかもそのバリエーションですよね。SFでは「外側から見るとあの人なのに、実はそうではなくなっている」というパターンのお話が多い感じがします。エイリアンとか遊星からの物体Xとか乗っ取り系のお話です。明らかに人が違っちゃうのも怖いけど、「あれ、なんかおかしい...」みたいな不信状態も結構ヤです。さて、スタートレックでは、どっかの星に一人遭難とか隠遁してた人は大体人が変わっちゃってますし(このパターン多すぎ)、または、カーク船長が二人になっちゃった!とか、感染症になって人が変わっちゃったカーク船長とか、洗脳されてお色気に幻惑されるカーク船長とか、カーク船長のアイデンティティの危機が続くので「こんなに毎回翻弄されるうかつな船長で大丈夫なのか」と船員に思われそうな気もしますが、毎回次回になるときれいさっぱり話がなかった事になり船長への信頼は揺らぎません。

 

しかし、考えてみると、その人の「その人らしさ」ってなんだろうな、とも思います。例えば、自分だって久しぶりに会った人には「なんか昔と変わったね」とか思われている事があるだろうし、このSNS時代、いくつか別のSNSを使ってたりすると、いや、別にSNSに限りませんが、所属する場所や人間関係の輪ごとに若干自分が他人に見せる面というのは違ってくるというのは日常経験している事ではありますよね。人間が相手の事を100%理解する事も不可能ですしね。そこでSFなどでは、その分かり合えない人間同士の不安のリリーフに、スポックとかデータとか「(基本的には※)感情的にゆらぎない状態でいる相棒」みたいな存在がいて、視聴者に安心を与えるという寸法なのですね。銀河ヒッチハイクガイドのマーヴィンも、常にネガティブですが、ネガティブであるという意味においてとても安定した存在でほっとします(するか?)。こういう相棒キャラの配置という図式は、革新的宇宙時代においても人の心には「変わらぬものにいてほしい」という若干保守的な願望もあるという表れなのかもしれません。というか、SFだけでなく日常で、テレビで見ているタレントさんとかはそういう役割、「キャラ」を求められている存在でもありますね。

 

まあ、でも、やっぱり人間はそういう存在になれないというか、人間は「キャラ」ではないゆらぎある複雑な存在なわけで、「キャラ」という概念に慣れすぎるのも、もしかして人間同士の付き合いには障壁を作るのかもしれないな...とか思ったりして。人間は孤独な島ではないが、不変のキャラでもないのである。というわけで、この人はこういう人であってほしい、という自分の思い込みや期待が相手に負担をかけるという局面もあるかもしれず、気を付けたいなと思ったり。まああと、政治家とか、キャラとして見ちゃダメな人をキャラ扱いしないように気をつけないとね、とか。

 

ところで、にしても、エンタープライズ号には防疫の概念がなさすぎる。見知らぬ星にあんな無防備な格好で行っちゃダメ!わー宇宙の謎物質に素手でベタベタ触らない!とか、このコロナ禍で見るとつくづく思います。2021年、それはもうSFよりSFの世界なのであった。

 

※実際のところスポックもかなり感情的でいろいろやらかしてますし、データも感情チップとかつけちゃいますけどね。