
「ソラスタルジア」という言葉を知ったんですよ。
日本語版はなかったんで英語版ですがwikipediaによると、
en.wikipedia.orgこれは、ラテン語のsōlācium、英語のsolaceやcomfort(安堵や慰め)にあたる言葉と、 solus(荒廃や孤独を表す言葉)、それとalgia(痛み)を合わせた造語だそうで、オーストラリアのグレン・アルブレヒトという環境学の教授が考えた、個人の「場所の生活体験」に基づいたある種の郷愁や悲しみ、またそれに伴う心身症状などを表したものだそうです。
同様に郷愁を意味する「ノスタルジア」という言葉が時間や空間で隔たれたもの(遠いどこかから故郷を思う、とか、祖父母の写った写真の中の自分が生きてなかった時代に対する懐かしさ、みたいな?)への喪失感への言葉であるのに対して、ソラスタルジアは
「家にいるのにホームシック」
今ここにいて今ここが失われる悲しみについての言葉、のようです。
家がもうなじみの家じゃない悲しみ。例えば、わたしは生まれてからずーっと同じ町に住んでるんですが、よく「昔のこの町」が夢に出てきます。もうこの世に存在しない町。わたしが生きてた50年かそこらでも、駅前なんかは開発されてもうわたしが記憶してる町はこの世から消え失せてるんですよね。
まあ、そりゃ時の流れには逆らえないし、なんかさびしいけど仕方ないよね。
とわたし含め大抵の人は思ってやり場のない気持ちがなんとなく心に溜まってあきらめて、みたいな感じだと思うんですが、それを「時の流れだよね」で済まさない、つまり
それ本当に「仕方ない」の?
という掘り下げというか問いがこの言葉にはあるようなんですねー。

というのは、近年、環境の健全さを保つ事と人間の健康は相互に結びついているという概念、「プラネタリーヘルス」というものが環境問題を考える時に語られるようになってきました。
地球が健康(と、まあ人類が思う状態)でないと、人間の健康も損なわれるよね、というのがプラネタリーヘルスで、これなんか実際もう温暖化で夏が激暑化し続けてもう命の危機かと思うぐらい暑いのを経験してるので実感できるところです。
で、環境破壊は人々の身体だけでなく心の健康にも深刻な影響があって、しかもそれが、災害とか「人類にはどうにもできないもの」ならまだしも、実は人間が引き起こしてるんだから人間が止められるもの、なのに、多くの人々の喪失感と引き換えに、それで一部の人が目先の利益を得るだけだったり、未来を考えない場当たり的な行政の怠慢が原因でした。となれば、「仕方ないよね」じゃ済まないというか、責任者出てこい状態なんじゃない?という話です。
でも、実際のところ、昨日までみんなが憩いの場にしてた緑がいっぱいのいい感じの小さな林、小道には小鳥が時々ひらりと舞い降りるよ、みたいな場所が、なんか知らんけど企業が買い取ったんだか再開発なんだかでブルドーザーがあっという間に木を1000本根こそぎ倒し、コンクリ舗装でつるつるの商業施設になっちゃった。しかも、もうその隣500mぐらいのところにはすでにでっかい商業施設があって「買い物に行く場所がどうしても足りないよね」とかでもなかった。なんならこれ以上いらなかった。
というような場合に、反対運動とかわたしひとりじゃできないし、運良く地域の人たちみんなで団結して反対できたとしても、ちっとも効果なく結局やられっぱなし、もっと悪いケースは「そんなこと全然知らされてなかったのに昨日まであった景色が今朝起きたら壊されてた」ということも、まあまああります。こういう理不尽や敗北感、自分は無力だという感覚にさらされ続けると、うつ的な症状になったりするのは決しておかしなことではない、そういう苦しみは気のせいじゃない、あるんだよ、ということを示す言葉として、「ソラスタルジア」という言葉があるというのを知っておいてもいいのではないかと思います。
実際、わたしはこの言葉を聞いて「ある!わかる!つらい!」とすごく思いました。これが、小さいうちの町、とかの規模じゃなくて、気候変動で海面上昇してもう村ごと住めなくなっちゃった、でもそこに住んでた人たちは全然CO2排出したり化石燃料を掘ったり使ってる側の人じゃなかった。とか、すでに世界規模で起こってますが、その場合のやるせなさ、苦しみは計り知れないんじゃないかと。
じゃあどうしたらいいの?って話ですが、もちろんわたしにも答えなんてわからないんですが、ひとつ思うのは、近年の社会システムが物事を決める時に、その場にいる、住んでる人の声がうまく掬えずに、どっかにいて「住んでない人」に決定権が偏ってるというのはあるのかもしれないなと。
まあでも、地域住民に聞いても、わたしのように「もうショッピングモールはあるから2ついらないよー、林の方を残して」と思う人もいれば、「林なんかいらないよ、虫がいると困るし、落ち葉のごみも迷惑だし、新しいショッピングモールができるほうが楽しいし」という人もいるんじゃないかとも思います。多数決で「林はつぶしてショッピングモールのほうがいい」という人が多い社会では反対運動なんか起きませんから当然林はなくなり続けるわけで、そうなると(開発者側や行政の問題もあるにせよ)わたしたちが社会に何を望むのか、というのが原因でもありまして、自分たちが問題の一部だと考えることもできますね。むむむ。
で、↓の記事を見つけました。これはイギリスのResurgence & Ecologist という環境雑誌の日本版を紹介してくれてるサイトのようで、この記事では社会変革の専門家ジェム・ベンデルという人がその辺を指摘して「気候危機は、西洋社会において人間の精神が自然の生息地からどれだけ切り離されてしまったかの結果」だという話が出てきます。
記事から引用ですが
「私たちが自分自身を自然の一部と見なすことができないことが、環境と精神の両方にダメージを与えている」
「私たちが対処していることの大部分はこの断絶である」
とのこと。なるほど、わかる気がしますねー。
また記事中で作家のポール・キングスノースという人がこれを「進歩の神話」と言ってると紹介されてます。
「私たちは(長い間)、あらゆるものが成長し、拡大し、増大し続けなければならないという、危険で虚構の経済進歩の物語を自分たちに語ってきたのだ。 しかし私たちは、気候変動による大災害がこの物語を解きほぐし始め、代わりに物語の危機を露呈させているのを目の当たりにしている。」
この記事も面白いので興味ある方は読んでみてくださいませ。
こういう話をすると「あなたにとってショッピングモールは不必要かもしれないけど、ショッピングモールが必要な人もいるのだ、雇用が生まれ、地域格差が減り、経済が回る。センチメントよりも現実を見なさい」と思われる人もいるんじゃないかなと思うんですが、いやわたしもショッピングモールで買い物するし、文明を捨てて竪穴式住居で暮らそうとかそういうのは無理ですし、開発や「発展」に恩恵を受けてるのも確かなので全部悪だとも思わないんですが、思うのはショッピングモールは「2つ」「そこに」「どうしても」「だれのために」必要なのか、「各種の事情を突き合わせた上で、検討の余地はないか」というのは考える価値があるんじゃないかなとは思うんですよね。
少なくとも話し合いがフェアにできて、どうしても必要ならばその必要性を理解した上だったり、妥協案をさぐったりして合意形成すればソラスタルジアも起こりにくいケースもあるかもしれませんしね。必要かなあってみんなで材料持ち寄って話し合ってみたら「やっぱいらないよね」って合意できた、という可能性もありますし。
「増大し続ける」ことにちょっとタンマ(タンマって死語?)、適量ってどこなのかはもうちょいみんなで考えていける社会になるともうちょっといい感じにならないかな、というような。そうでないと、増大するのは経済だけじゃなくてソラスタルジアも増大していっちゃって、それは幸福社会といえるのかなあ、みたいな。杞憂かもしれませんが。
それとも、人類って、ひょっとして「ちょうどいい」の臨界点を突破して、とにかく作って壊して作って壊して浪費して」がやめられないのでは...。
というハテナのお題がありましたが、そうだったら怖い。未来のツケが。
それと、この問題を考える時、予め話し合いのテーブルにつけないのは誰か、も忘れてはいけないかなと。木や鳥や虫は自分たちの住処をショッピングモールにしますよ、なんてとんでもない話を知る由もなくそこに暮らしてますからね。そういう動物たちが感じているだろう喪失感を表す、動物にとっての「ソラスタルジア」的な造語も必要かもしんない。

ではまた。