saoriotsuka-diary

イラストレーター大塚砂織の由無し事を綴るページです。仕事の紹介もしますが、ベランダ園芸の話やたわいない話が多いかも。

透明な人とありえない人(読書感想絵)

今日は読書の感想を(わたしが仕事した本とかではなく、単に読んだ本です、普段仕事の本の紹介が多くて紛らわしいかと思いましたので一応注です)。

先日、「アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?」という本を読みました。

本はこちら。

www.kawade.co.jp

この本は、経済学の中ではどんな労働が労働として語られ、どんな労働が労働として語られてこなかったのか、という問いから、現行の経済システムが金銭価値を生む経済活動としてカウントしていないけど、れっきとして存在している労働、つまり主に女性が担ってきたもの、家事とか、ケアワークとか、そういうのを「ないもの」として扱ったままであったり、あるいはジェンダーバイアスに基づいて社会システムを設計し続けるのはちょっと無理なんじゃない?というようなことについてのお話です。

人間っつーのは所詮損得で動くものだ、この世は貨幣による価値交換が全ての礎である、というような経営学が描いてきた社会モデルは、無償(とされている)労働とか、善意とか、感情とか、そういうものの価値を経済に勘定しない、この世に存在しないかのように扱ってきた面があるのではないか、という。そして、その勘定されないものって「女性的」として括られがち、そういう構造もあるのでは?

 

読んでるといろいろ身につまされるんですが、この価値観は「ないもの」とされてる当事者側である女性も大なり小なり内面化して久しいのではないかと思います。

わたしが育ってきた時代、80ー90年代のウーマンリブと女性の社会進出の流れは「男性中心経済社会を変えよう」というところには(もちろん努力してる先人はたくさんいたと思いますが)なかなかまだ行けないので、じゃあその男性経済社会のヒエラルキー上位を目指そう、「男並みになろう」というような方向に引っ張られてしまっていた気がします。

かつてオヤジギャルという言葉がありましたが、男のようにばりばり働き、ばりばり稼ぎ、ばりばりお金を使って遊び、人生を謳歌しよう!みたいな感じです。

が、そっちに行っちゃうと、あれ?じゃ誰が家の中の掃除すんの?誰がご飯作るの?子供のお迎えは誰が?っていう問題は残り、「じゃあメイドさんを」とかみたいになって、え、でもじゃあメイドさんに働いてもらったとして、そのメイドさんのお子さんの面倒は誰が...

えっ?これって問題をさらにどんどん経済的に力のない人のほうに先送りしてるんじゃあ...。※1

 

そもそも、じゃあケアワークとか、お金にならない仕事、家でご飯作ったり掃除したり靴下繕ったり看病したり子供を育てたり家族の介護したり、他者の心を気遣ったりとかって、価値がないことなの?!逆に人生ですごい重要じゃないですか?

「他者をケアする」という役割は「世界に絶対に必要」で、それこそが人間生活の中心的な営みの一つでもあるのに、なぜかそれに従事する人が経済的基盤を十分に築くことができる仕組みが社会にないといいますか、経済的にペイしないようにできてる、これは社会システムの重大な欠陥なのでは?

むしろ、そっちを男性もやるべきじゃない?みたいな問いもあり、そういうものを避けて、誰もケアせず誰にもケアされず、仕事と生活はきっちり分けられ、生活は決して経済社会にはみ出させず、"孤独な島"のように生きることができる人間って本当はありえなくない?という話になっていきます。

そう、純粋なる「経済人(ホモ・エコノミクス)」なんて存在しない絵に描いた餅じゃね?そういう「ありえない人」に最適化した社会設計って何なの?というような...。

でも現実問題、「お金稼いでる人(そしてそれは今でも主に、男の人と見做されがち)がエライ」という価値観は非常に強固でして。

わたしなんかも、ブログなんか書いてても、手芸の事とか園芸とか料理の話、つまり「仕事に関係なさげで、かつ、女性がやることとカテゴリーされがち」な話を書いてると、いわゆる軽視を帯びたステレオタイプな言い方になりますが「仕事は片手間の趣味人の主婦」的に見られて、「プロフェッショナル」な仕事人ではない人と見做されてしまうのでは、と内心かなり恐れてる部分もありまして。

「いや、そんなこたないんです、生活のために必死でモーレツに働いてるんです、めっちゃ仕事人間なんですよ仕事一筋28年ですぜわたし!」

とどこかに言い訳を捲し立てたい気分にいつもなんとなく駆られているんですね。なんだろ、これ?手芸の事とか園芸とか料理の話ってそんなにデンジャラスなの?なんの自己検閲?

女性で仕事をしている人の場合、こういう「うっかり油断すると家庭というフォルダに分類されて労働経済世界から締め出されるのでは」みたいな謎プレッシャーも感じてる人も結構いるのでは?と思ったり。どうでしょう?(ハテナが多い)

例えば、SNSで男性の職業人の方がご家庭のお子さんの話とかしてるのを見ることもよくあるんですが、それはそれで微笑ましいなあ、いいなあとも思うんですけど、同時に、たぶん、女性の職業人は逆に、家庭的な雰囲気や「生活のはみ出し」を感じさせたら「いっぱしの経済労働人」と見られないのではないかと警戒して、そういう話を抑制しがちという非対称はあるのではないかなーとか、ふと感じたりしなくもなく。(いや、男の人がそういう話をするのが悪い、という意味では全然ないですよ!単にそういう心理の差がある気がするという話です)

 

そこで気づくわけです、自分の中にもしっかり「経済人幻想」が居座ってるということを。自分も「仕事は片手間の趣味人主婦」的な軽視を内面化してるんでは!?ああ、自己嫌悪。

片手間で何が悪いのか、趣味人で何が悪いのか、すてきなことじゃない?大体、前述したように主婦は労働的に非常に重要な役割を担っている、にも関わらず社会の「主婦」という言葉への「労働と関係ない人」的なステレオタイプは非常に強固です(それに、まず、重要な事や労働をしてなくたって主婦は主婦としててなにが悪い、というのももちろんあります)。そっちに乗っかりたいわけじゃないんだよォ!って思ってるのに、そっち側の視線を意識して生きてるこの体たらく。

「モモ」を読む時って、自分はモモの側だと思って読んでるし、ジジが変わっていくの悲しいなあとか思って読んでるじゃない!それなのに、実際はジジとか、なんなら灰色の男の側になってない?自分。

でも、「主婦」だと、つまり、経済労働のスタメンベンチに座ってる人じゃないとみなされたら労働市場というマウンドに上がらせてもらえなくなるのでは、みたいなプレッシャーも根強い。さっき「謎プレッシャー」と書きましたが、答え合わせするとこれは謎でも気のせいでもなくて、女性が長く低賃金に置かれていた(いる)ことや、主婦を主な従業者層として見込んでいるパート職や非正規労働は賃金が実際低いので根拠があり、わたしだけのせいじゃないと思うのですが。

ともあれ、かくて、内なるダブルバインドが起こるわけで。

ああ、ややこしい&めんどくさい。

 

というか、ちょっと本から寄り道しますけど「お金を稼ぐばっかりがエライ」なんて、ヤだ!、だけでなく「労働してるほうがエライ」もヤだ!ともわたしは思ったり。

世の中には、いわゆる「労働」をしていない人もたくさんいて、その人たちだって皆、大事なそれぞれの事情のそれぞれの人生を生きてて、大事な存在に決まってるじゃないですか。"丘の上でただ、地球がぐるぐる廻るのを見てる"って人、労働や経済に参加してない人も安心して生きていける社会のほうが住みやすいに決まってます。そっち目指せないもんか。どうにか。

さらに、「経済人」のレンズを通して見るのをやめない限り、そこにあることがお金で表せない価値があるもの、ちょっとした笑顔のやりとりとか、喜びや感動、思考を深めること、人間存在だけでなく、美しい景色が存在すること、ありんこがただ歩いていたりすること、秋には金木犀が香り、5月には燕が駆け抜けてく、そういうものやそれを好ましく感じる心も「お金を生み出さない、換金できない」というだけで「価値がない」とされ「不必要」だとして切り捨てられるような社会にもつながっていっちゃうんでは?

だんだん何を言いたいのか自分でもわからなくなってきましたが、「どれだけ稼げるか」みたいな資源化用の定規で物事を測り続けて社会を作り続けるのって、これからはますます無理になってくんじゃないかな、と。

その理屈だと、悪いことしてたってお金をうなるほど稼いでたら「立派な人」だし(あ、なんかそれ知ってる気がする...)、お金稼いでる人だって稼げなくなったらお払い箱よ。って、実際そういう価値観が蔓延してるからみんな追い立てられてフライパンの上でじりじり生きて苦しいんじゃない?きゅうー(フライパンに煎られる音)。

 

もっと言えば、産業革命以降こっち、みんなが熱心に自然から資源を引き出しせっせと換金して立派な経済人たらんとして努力してきたツケは、

「はいこちら請求書です、地球が住めなくなるほどやばくなってきますよ、昆虫なんか、バイオマスでいうと過去27年間で75%以上も減少しちゃったんだから。さようならシロクマ、さようならサンゴ礁。もちろん人間もですよ、今まで通り食料が作れるなんて思わないでくださいね。熱波や干ばつでたくさん人が死んじゃったりするんですよ。しかもその死んじゃう人リスト、"地球を換金してこなかった人"から先に乗っちゃってるんですよ」

ってことにもなってきてるんで、ああ大変。

 

「お金を稼ぐエライ人」と「その他の価値のない、稼げないもの」という2つを前提とした社会設計は幻想で、それを信じてずっと突っ走ってたら、実際は「お金を稼ぐ人がエライ」というイデオロギーと富の極端な集中が、それを支える人、自然などに依存したり、搾取したりがあって成り立ってる社会に到達しちゃった。それが今の社会で、それだと依存される側の女性や自然はもうくたくた、持続不可能になってしまう袋小路が見えてきたというか...。

 

というわけで読みながらいろんなこと考えさせられ面白かったんですが、面白くてやがて悲しいかな、じゃあどうしたらこういう状況を打破できるんでしょうね、その辺やっぱりまだよくわかりません。

資本換金経済社会の理屈で考えると掬えない大事なものがあり、その主な担い手は女性に偏っているということ。そういう「お金に換えられないもの」が成り立っていくためには担い手が女性に偏る現状をなんとかしないといけないし、担い手へのお金や社会保障や支援がもっと必要なんですが、女性への社会保障や賃金平等、雇用機会はどうだろうかというと、この本が著者の国スウェーデンで刊行された2012年から劇的に改善されてるとは言い難いままかなあと。ため息が出ちゃいますね。

とりあえず、それを考えるテーブルにもっともっと多くの女性が同席する必要がありそうですね。

 

ではまた。

 

※1

ちなみに、アダム・スミスの夕食を作っていたのは、母親、マーガレット・ダグラスだとこの本では紹介されていまして、アダムがマーガレットの亡夫の財産の3/4を相続したため、マーガレットは生涯経済的にはアダムに依存させられることとなり、またアダムもマーガレットに身の回りの世話(あるいは精神的な支えも)を生涯依存した、とありました。また、アダムを支えていたのはマーガレットだけでなく、いとこのジャネットも重要な役割を果たしたようです。ですが、この時代の裕福な家庭の人はお手伝いさんとか雇ってたかもしれず、アダム・スミス家でもさらに食事の世話という面ではお手伝いさんにも「ケア労働の先送り」もあったかもしれません(が、基本はやはりマーガレットとジャネットが家庭を支えるという役割を担ってたのだと思いますが)。