トップページのイラストを季節ごとに変えようと思いつつ、ついついあまり変えないのですが、一応夏バージョンにしました。んで、それにちなんで、一枚ずつ絵にまつわる話をしようかなと思います。
今回はこちらの絵についてです。
この絵は幾つかの最近のわたしの関心事をちりばめています。
1.
夏休みといえば、「夏の大三角形」を探して眺めたりとか、宇宙展やプラネタウムに行ったり、はたまたおそらくスターウォーズを見に行ったりした思い出が関係してるのか?なんとなく宇宙にわくわくした子供の頃の記憶があります。
そんな夏の始まりにふさわしく(?)、先日、NASAが新しく打ち上げたジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡からの初画像が届いたというニュースがありましたね。いやもう、写真に写る宇宙の鮮明な美しさにびっくりしました。こんなことになってるのか、宇宙!まるで宝石箱ぶちまけたみたいだね!(そういえば昔、宝石箱というアイスもありましたね)と、楽しくニュースをたどっていたのですが、そのついでに、こういう話も知りました。
自らもクィアと公表している理論物理学者のChanda Prescod-Weinstein氏が執筆したこの記事によりますと、なんでも、この宇宙望遠鏡に名前を冠されているのは1950〜60年代のNASAの長官ジェイムズ・ウェッブ氏なのですが、命名については異議の申し立てがあったのです。
マッカーシズムの時代のアメリカでは、その一環として共産主義者だけでなく、同性愛の人々などの迫害もあり、連邦政府による同性愛者の職員大量解雇などもあったそうで、それは「ラベンダー恐怖」の時代と呼ばれています。それで、くだんのジェイムズ・ウェッブ氏は、その性差別的な政策に加担していたとみられ、NASA長官としての功績はあったとしても、果たしてその事を無視して望遠鏡の名前として栄誉を称えられるにふさわしいのだろうか?ということらしいです。
結局、1,800人以上の天文学者が署名した名称変更の要望は聞き入れられず、名称はそのままになってしまいました。
社会の価値観が改善されていくにつれて、昔ある業績を残した人物が他の面では良い評価ばかりできない面も抱えている事がつまびらかになるという事例は最近多いですね。その人の功罪の「功」の部分が社会に役立ったのが確かだったとしても、「罪」というか、関わった差別の問題にほっかむりして、いいところだけしかなかったように「今」また評価してしまうことで、差別された当事者や社会に「その差別は今も大した問題ではない」というメッセージを新たに与えてしまうのではないか、ということは問われますし、問われているのはジェイムズ・ウェッブその人だけでなく、今その名を冠していいとしたままであるNASAの体質や、問題を知らずに済んでしまうわたしを含めマジョリティでもあるということなのですね。
記事の中では、実際にLGBTQIA差別はまだ現在でも科学界や政府組織の中に存在し、過去の問題として片付けられないという現状も紹介されています。Weinstein氏は「モニュメントや施設に個人の名前を冠する場合、こうした問題は常に起こるやっかいな問題です。どんなヒーローも完璧ではないのです。」と言っていて、確かに、そもそも人の名前である必要があるのかな、という気もしますし、なにより、その望遠鏡が届ける輝きを見るたびに、自分たちへの差別の歴史や現在進行形で自分たちの問題が社会的に軽視されているという事実に向き合わされてしまう人々がいるというのは悲しいことではないかと思います。
最後にWeinstein氏は、それでも名前をつける慣行を続けるならば、あるいは宇宙望遠鏡にハリエット・タブマン氏の名前をつけるのはどうだろうかと提案しています。ハリエット・タブマンは20ドルの顔にもなった、黒人女性です。なぜ彼女なのか?理由はこの人物の人生と空の星の意外な関わりにあります。
19世紀に黒人奴隷だったタブマンは、奴隷主の元から逃亡しました。長い逃避行の道筋、タブマンが頼りに辿ったのは、暗闇に輝く北極星だったそうです。その後、たどり着いたフィラデルフィアでタブマンは他の多くの黒人奴隷が逃亡するのを助けた「地下鉄道」の車掌になりました。
確かに宇宙を知る事が人類の英知や繁栄に寄与するのなら、そのまさに正しい使い方により導かれた先人の名が、今度は未来の人々に社会がどうあっていくべきかを導く手がかりとなる、というのはよいアイデアではないかと思います。
タブマンの話はありませんが、命名問題の概要はこちらに日本語の記事もあります。
というわけで、望遠鏡を通じて、美しい宇宙の果ての新たな発見を見ることができるのは喜ばしいですが、その一方で人類は今やこんなに高度に遠くを見通せる技術を持ちながらも、今日でも地上に生きる、すぐ目の前にいる人々の苦痛が見つめられないままになってしまっている、という問題も考えさせられたのでした。
2.
夏休みになると、宇宙へ海へ山へと外界への憧れも募るいっぽう、読書の思い出もあれこれ蘇るのは、子供の頃に「課題図書」みたいなキャンペーンがあったせいでしょうか。それとも、読む時間が豊富にあったせい?ムーミンやプーさん、アラン・クォーターメイン、夏への扉、なんとなく読んでた時の部屋の感じや気温、空気感、夜の読書灯の明かりの色などもセットで覚えてる感じがしますね。
わたしが特に今でも夏に読み返したいのが、ブラッドベリの「たんぽぽのお酒」です。
冒頭でダグラスが、今自分が「生きている!」を発見するくだりのみずみずしい描写を始め、この物語は眩しい光の中にはっきりと残酷さが織り込まれている、生と死、幸福と不安についてのお話なのだなあ、と感じます。
そして、自分が歳を取り、視座がだんだん人生の始まりから後半戦へと移り変わっていくことで、かつて読んだ時とは違う部分に発見があり、日差しが作る影について思う部分が年々色濃くなってきた気がします。もっと歳をとってから読んだら、そのときはまた違う本になっているのかもしれません。
人生に起こるたくさんの「特別な瞬間」は、マッチ箱の中に取っておいた雪のようにはかなく頼りないものでもあり、けれどもこの小説の中では、まさに夏を封じ込めた「たんぽぽのお酒」のようにいつも芳醇に保たれてもいて、本を開くたびに読者はその甘さと苦さを味わえるというわけです。
3.
子供の頃は夏休みは永遠に続いてほしいと思ったりしたものですが、そういうわけにもいかず、また、夏から「休み」が切り離された大人になってみると、この焼け付くような暑さは体にこたえますね。早く涼しくなってほしいもんだ、と思うのですが、今年もヨーロッパでは猛烈な熱波が襲っていて、気候学者たちが「未来を長期的に見れば、この夏がこれからの100年で一番涼しい夏となるだろう」といううれしくない予言(といっても、科学的事実から推測されるシナリオですけども)をしています。どうにか止めないとと思うんですが、どうやって?まあ、少なくとも皆が「なんとかしなければ」と真剣に考える必要はあるのかも。見上げれば遠い宇宙にはロマンがありますが、足元を見れば燃えてるのですよね。うーん。