saoriotsuka-diary

イラストレーター大塚砂織の由無し事を綴るページです。仕事の紹介もしますが、ベランダ園芸の話やたわいない話が多いかも。

春を贈るのは誰?

↑この絵は先日、「婦人公論」さんの一人旅特集のために描いたイラストです。いいですねえ、一人旅。出会うねえ、アオサギちゃん。

 

ゴールデンウィーク、みなさま行楽など楽しんでますでしょうか。

わたしは出かけもせず仕事雑事片付けなどの日常を送っております。この仕事をしてると、あまり世間の暦に併せて休みを取れず(というか、いつもだらだら仕事と休みの境界のない日々というか、休みを満喫できない体質というか)、加えて臆病な猫ちゃんがおりますんでホテルに預けて出かけたりもできませんで、旅行とはトント縁がなく、せいぜい日帰りで近場の鎌倉とかで遊ぶのが限界値、普段は近所をちんたら散歩するのが楽しみです。

と、自分の人生のスケールの小ささを露呈しましたが、そうは言っても実際のところ別にそんなに寂しくもないです。というのは、近所で雀とかツバメとか雑草とか観察しながら散歩してるだけでもまあまあ楽しい、「楽しさ閾値」が非常に低い人間なので、近所でも満足、たまに知らない町を訪れればどこでもちょっとした旅になりますし楽しいです。

 

散歩といえば、季節はずれになってしまいましたが、うちの近所の桜の話を。(桜の話って、季節がすぎるとものすごく季節外れ感が強いですが...)

うちの近所の座間市には、桜並木の緑道がありまして、名前を「相模が丘仲よし小道~さくら百華の道」というのですが、この桜並木、早咲き遅咲き秋咲き冬咲きなど、全長1.6キロメートルの道になんと64品種の桜が全部で220本植えられているのです。ですので、ソメイヨシノが咲く束の間だけでなく、どの季節に歩いてもなんかしらの桜や花木が咲いてたり、あるいは他の低木花木などがあったりで、歩いてて和む道です。

実はこの道、昔は用水路沿いにソメイヨシノだけを植えた農業小道だったらしく、その後緑道整備されたのですが、ソメイヨシノは寿命が短く、木が老朽化してしまい、わたしが知ってる昔の道は立派なサルノコシカケがくっついた(つまり中がすかすか、いつ倒れてもおかしくない)巨木の並木通りでした。

で、安全性などもろもろ理由で(ってこの辺座間市民じゃないので知らないんですが)残念ながら切ることになってしまったのですね。わたしも切るという話を聞いた時は

「なんてもったいない、なんとか残せないのかなあ...」

と思ったのですが、台風などで倒木もあり、周辺住民の安全なども考えると避けられないことだったらしいです。

が、ここからがすばらしい。市民のみなさんが緑道の存続を強く望んで働きかけてくれたため、新しく桜を植えて、市民の憩いの美しい道は維持されたのですねー。

その再整備が終わったのが2015年、初めの頃は、頼りないひょろひょろと細い若木を見て、昔の立派なソメイヨシノを偲んで寂しく感じたり、「本当に育つのかなあ...」とか思ってたんですが、なんのなんの。たった10年足らずで、桜たちは立派に大きくなって、とてもコージーでいい感じの道が出来つつあります。

今年の桜たち。

まだ寒い2月から3月には寒緋桜や河津桜

撮ったの夕暮れトワイライトなんでちょっと写真暗くてすみませんが。

↓ぼけぼけですがメジロちゃん。

↓ひよちゃんも。

そして4月になれば...

八重に一重に、可憐に、ド派手に、はかなく、大胆に、白いのも桃色も、それぞれがこの世の春を謳歌して、まさに「喜びが爆発した小道」の様相を呈した、えらいことになってます。道ゆくひとみんな笑顔。犬も笑顔。鳥たちは食事で忙し。ほほほ。ふふふ。そうだよねえ。

 

さて、再び整備された桜並木は様々な品種が植わっているので、八重桜など寿命の長い桜も多く、また市民の方々が清掃やメンテナンスを折ごとに行ってくれているので、寿命になった桜もきっと更新を働きかけてくれるだろうし、この美しさが年を重ねるごとにますます賑やかになって保たれていくのではないかと思います。すてきですね、座間市民のみなさま!座間という名前は、ひとつの不幸な事件のせいで知らない方には暗いイメージがついてしまったかもしれないのですが、このような美しい小道のある、谷戸と水を湛えたのどかな町です。

わたしはお隣、相模原市民ですが、GW中も青々とした若葉がまぶしいこの道を通ってイオンに買い物に行ってます(道の終点がイオンに出るんですね、ははは)。

 

ジョージ・オーウェルが短いエッセイ「ブレイの牧師のための弁明」で

「木、なかでも寿命のながい固い木を植えるというのは、金も手間もほとんどかからない子孫への贈り物になるのであって、もしもその木が根づけば、善悪を問わないどんな行為よりも、ずっとながいあいだ目に見える形でのこるのだ」※ 1

と言っていますが、まあ現代社会、市街地などでは木を植えたり、ましてやそれを保つには「金も手間もかからない」というわけではないですが、木を植えたい、保ちたい、ということを願う人々の見返りのない善意の贈り物で町の景観というのは作られているのだなあと思いますし、さらにこの桜たちの旺盛な育ちぶりを見ると、人の手を遥かに超えて植物たちが世界に美しさを贈り続けているというのも実感し、「世の中も捨てたもんではないな」と思えますね。

いっぽうで、昨今、あちこちで「周辺住民が大事にしてた木をあっという間に知らせもそこそこに切る計画、どころかすでに切られちゃった」とか、うちの近所でもついこないだまで林の生い茂る山だったところがきれいさっぱりまるまるなくなってブルドーザーが整地して家建ててる、みたいなのもよく見かけ唖然としてしまうこともしばしば、市街地からはどんどん緑がなくなってるのを実感します。散歩してても、庭があって木を植えてる家はどんどんなくなってますしね。上記の座間のように、いい感じで緑と共存できないものかなあ...。きっと、緑があったほうが、みんな気持ちがもっとのどかで楽しくなると思うんですがねえ。遠くに旅行に行かなくても、家の近所が旅行気分の美しい眺めで、木々や鳥とかとすぐ出会える、とかだったらすてきだと思いません?

ではでは。

↓これは以前書いた座間の団地のスケッチ。団地も緑がいっぱいでいいですよね。

 

 

※1 朔北社刊「一杯のおいしい紅茶」ジョージ・オーウェル 著/小野寺健 編訳 より引用しました。最近レベッカ・ソルニットの「オーウェルの薔薇」(岩波書店)という本のなかでこのエッセイを取り上げるくだりを読みまして、思い出して読み返してます。オーウェルは「動物農場」と「一杯のおいしい紅茶」を絵の題材にしたこともあるぐらい好きなんですが、ソルニットのこの本も骨のある面白い本で、オーウェルからソルニットへと触発された、ふたつの名作が伝えることが現代に響く感じがします。

 

今週のお題「名作」











 

信濃毎日新聞の日曜コラム「思索のノート」平田仁子さんの挿絵を1年担当します

信濃毎日新聞の日曜日に連載される「思索のノート」

www.shinmai.co.jp

という大型コラムのコーナーで、今年は今日4月14日から気候政策シンクタンク

Climate Integrate | 気候を保護するために

の代表である平田仁子さんが執筆し、わたしが挿絵を担当することとなりました。

気候変動の問題は、確実に起こる未来の危機(というか実際はもう起こっている現在の危機でもあるんですが、未来には激甚化していくわけで)で、しかもわたしたち全員に関係があるのですが、どうもひとりひとりの問題として捉え難かったり、具体的に個人はどう関われるのか、または影響があるのか、個人でなくシステムを変えるのはどうしたらいいのか、が掴みにくいテーマですね。このたびの連載は平田さんがその「遠いテーマ」を、引き寄せてくれるようなヒントに満ちた素敵なコラムです。

基本的には信濃毎日新聞さんの読者が紙面で読めますが、デジタル版もWEBで公開されていますので、無料登録からでも読むことができます。

www.shinmai.co.jp

もしも機会があったらぜひぜひ読んでもらえればうれしいです。

 

わたしの今回の挿絵のタイトルは「Uncharted territory 」で、これは先日のニュースで

今年の3月は、観測史上最も暖かい3月だったという新たなデータが発表されて、第年末までに気温が下がらなければ、気候変動は「未知の領域」に突入する可能性があると科学者が警告したというものを読みまして、(「気候変動は「未知の領域」に 10カ月連続で月別の最高気温を更新 BBC」)そのような事態になってるのに、なんだか日常は箱庭のように「普通に」過ぎてるなあ...というような自分の実感を込めて描いた絵です。

こういう大きな問題に、絶望や諦観に囚われずに、また「個人のエコ活動」で満足してしまうような矮小化にとどまらず、システムを変えるにはどう向き合うのか、今後ますます示唆に富むコラムになりそうです。

平田さんのツイッター(X)での言葉にこうあります。

今後、気候変動を巡って平田さんの様々な視点が語られていくのが、気候変動に関心ありありのわたしも読者としてとても楽しみですし勉強していきたいと思います。連載の挿絵を付けられるのが光栄です!

ではでは。

玄光社イラストレーションファイル2024に今年も掲載いただいております

今日はさくっとお知らせを。

玄光社さんから毎年出ているイラストレーションファイル2024に今年も掲載いただいています。今年もこちらをきっかけによいお仕事に出会いたいものです、どうぞお待ちしておりますー。WEB版の自分のページはもっと充実させたいのですがまだ手づかずでして、準備できましたらまたお知らせいたしますー。

隙間のカブその後

今日は大した話じゃないんですが。

以前この回で紹介した「へんなところから生えちゃったカブ」なんですけど、その後立派に育ちまして。

前回のおさらい

直径12cmぐらいの極小鉢なんですが、右の葉っぱです。同居の多肉植物ハコベを押しのけてますがまだカブは太ってませんね。

これが、3月下旬にはこうなりました↓。

けっこうがんばった。

もうちょと寄りで見ますと。これ、よく見ると多肉の根元に小さい三つ葉の葉も出てきてますね。

で、ありがたく収穫いたしました。

5cmぐらいです。葉っぱとともに夕飯の一品に味噌汁にしました。

カブって、本当小さい入れ物でもなんとかそれなりに育つんで育てがいがありますね。さて、これからのシーズンは夏の大規模修繕に向けてベランダ片付けないといけないんであんまり育てられないので寂しい限りです。

↓「収穫するのが惜しい」みたいな謎心理で放置してるととう立ちするがままになってしまい結局もったいないの巻(種取るけど)

↓放置がちなので春はこぼれ種とありんこたちの共同作業によりいろんな鉢が野生のスミレだらけになってしまいます。スミレ好きなんでいいけど。

三つ葉わさわさ。

そして、今日はこの三つ葉と、弱々しいセニョールちゃんをお吸い物に使いたいと思います。

ベランダとはいってもなんかしら夕飯の足しに収穫できるって楽しいですね、節約になります!って大声で言えるほどでもないけど。日々のうるおい?

それにつけても、恨めしや、大規模修繕め。つかどうしましょ、片付く気がしない。だって小さいの片付けてもでっかい鉢の木が8本もあるんですよ(いや、元は小さい木だったんだけどさあ...ホラ、植物って育つじゃん?って誰に言ってるのか)。どこにどー避難すれば...。ああ地面ほしい。いや、小さいカブを見習って自分の持ち場でなんとかしなければ...。と、逡巡したところで、ではまた。

ここ半年ぐらい分のはれ予報の連載を一挙紹介です

今日はしんきん「はれ予報」吉永みち子さんの連載コラム「鳥の目虫の目魚の目」の挿絵の仕事をまとめてご紹介です。連載の仕事というのは、毎回その月に紹介すればいいのに、うっかりするとすぐ溜まってしまいますが、やはりせっかくなので(?)遅ればせながらもまとめてみようかなと。

 

↓2023年11月号。夏頃話題になった国立博物館クラウドファンディングについてのコラムでした。博物館の存在自体が博物館入りしそう... みたいな。

小さい絵のほうは「庶民が雀の涙でクラファン出し合っても、一方お上は大金をじゃぶじゃぶどっかに降らせちゃってない?」という悲しい「雲の上」事情です。

 

↓2023年12月号では、昨今目まぐるしく変わる都会の街の再開発について。渋谷駅なんて、昔知ってた景色いっこもないんで、久しぶりに来たらまるでわからんおのぼりさん状態、って人、結構多いのでは?

再開発で便利でキラキラになったかもしれないんですけど、タダで座れる場所とか、緑とか、見慣れた懐かしい風景とか、そういうのはどんどんなくなっていきますねえ...。

 

↓2024年1-2月号ではホンネとタテマエという言葉についての考察です。本音で話す人のほうが正直な人、というような感じもするけども、建前、きれいごとと言われてしまうものの中にも理想とか矜恃とか原則とか、大事なものもあるんではないかしらん、というような。本音と称せば差別とかぱーぱー開陳できちゃうような社会だったりするのもヤですよね、確かに。

それと2枚目、本音と建前の絶妙な防波堤として「大丈夫です」って言葉がありますが、なにがどっちに大丈夫なのか戸惑うことも多しですよね。

 

↓2024年3月号は、12月号の話題ともつながるんですが、最近また「超高層ビル」が増えているというお話。麻布台ヒルズの最上階が200億円らしいとか、ゼロの数に驚いて思わず絵にしてしまいました。

小さいイラストのほうは吉永さんが子どものころに「摩天楼」という言葉がなんとなくおどろおどろしい気がして怖かったというエピソードから。怪人マテンロウ、夜現るの巻です。

 

↓それでこちらは2024年4月号、ふう、やっと最新に追いつきました。今回は吉永さんの個人的な思い出から、ギフテッドと呼ばれる人の話まで。小さい絵はどんぐりの背比べから抜きん出るアインシュタイン

 



さて、こうして振り返ると毎月、その時の話題になった問題などがタイムリーに取り上げられることも多いのですが、月日の立つのが早い早い、というか毎日のようにやっかいな社会の問題が上書きされてくこの世の中なんで、半年前ぐらいでも「ああ、そんなこともあったっけなあ」みたいに流れていっちゃいそうですが、いやいや、読み返すと吉永さんの社会を見る目がのするどさに、やはりどの問題も流しちゃあまずいよね、って改めて思わされます。

吉永さんのコラムはいつも本当に面白くて、わたしがここで要約というかまとめているよりもずっと深い考察があるのです(なので、もし読める環境の方はぜひ読んでほしいです!)。絵をつけさせてもらうのが楽しく、本当にやりがいを感じるいい仕事なので、毎月あるのがありがたいです。今年もノリノリで絵を描いて文章に彩りを添えていきたいです!

お題「「やりがい」を感じる瞬間」

カルーセルとルサンチマンと松五郎

まだまだ寒いですね。

こちらは3月のカレンダーの絵なんですが、これはJoni  Mitchellの歌、The Circle Gameのイメージがなんとなく頭にありました。

3月というのは卒業など節目もあったりで、月日の流れの無常を感じてしまう季節です。ちなみにわたしの誕生月でもあるのですが、だんだん暖かくなったり芽吹きの予感を感じたり、明るく楽しい季節のはずなんですが、わたしはなんとなくアンニュイです。

 

というのは、小学生の頃に3月には「持久走大会」というイベントがあり、わたしはずーっと「ビリっけつ」だったんですよ。

この「ビリっけつ」というのは、ビリの方なんだよね、とかそういう曖昧なものではなくて、学年で当時は200人とか300人とかいた同世代の子供の中で文字通り「一番ビリ」。最下位。最後のひとり。一番劣ってる人。という容赦ないヤツだったんですね。

今にして思えば、運動が苦手なだけでなく、3月生まれで4月生まれの人とは1年ぐらい差があって、ハンデもあったと思うんですが、まあとにかくこのビリっけつ体験は強烈な劣等感の呪縛を心に植え付け、なんとそれから40年経っても、ひとりの人間の心の中に「わたしはビリッけつのダメ人間なんだよなあ」という深い呪い(?)を残してるもんですから影響は絶大です。(つか、誕生日にこんな暗い話してる陰キャに育っちゃったんですからね、とほほのほ)。

ところで、わたしはイラストレーターとして独立してから今年でなんと27年(!)、それだけの期間、幸運なことにプロとしてなんとかやってこられているということはまあ、周囲の方々の暖かさに助けられてというのもありますが、自分でもまあ、一応は人並みよりはちょびっとは能力があったとか、努力したとか、そういう風に「すぐれた面もあった」と言えるのかもしれませんが、なんのなんの、それよりもずーっと強い劣等感が40年強烈にべったりへばり付いているんですから、幼少期の体験というのは恐ろしいもんです。

おそらく、これが30位とかの人はそれほど心に残る体験ではないでしょうし、逆に1位だった人は幼少の心に大変な自己肯定感の後ろ盾を得て、人生の支えとなったんじゃないかなと思います。

かように、人生とは平等でなくキビしい競争社会なんであるよ、子供とて例外はないのじゃ。つか子供の頃からむしろその無情を思い知るがよい。というのが学校教育の方針だとしたらそれまでなのですが、そもそも、子供の頃にそんなにいろんなことに順位つけるようなイベントしなくてよくない?という気がするのです。

順番つけるとしても、上位の子は称えるのはいいけども、もうなんだったら30位以下ぐらいは「みんながんばったね、まあ、ふんわりこっからは順番数えないで、適当なところで解散ね」みたいな感じにできないもんでしょうかね。すでにゴールした同学年の子供全員が「わたし待ち」でお荷物として出迎えられるあの情けない気持ちを毎年3月が来るたびに思い出させられる、どういう「サークル罰ゲーム」なんでしょうか。

よく自転車競技などでは「タイムトライアル」というタイムを競うレースがありますが、あれなんかは10分おきに一人ずつ出発なんで、せめて「一斉スタート」よりも、少なくとも数字さえ見なければビリッけつは可視化されないようにできますよね。なんで、ああいう感じで子供のレースも一人ずつできんものか。それじゃ時間かかりすぎるか。でもその時間を惜しむことで人に40年越しのタイムスケールで呪いかける羽目になってるんですから、ちょっとは検討してくれてもいいんではないか。ダメ?

つか、戻るけど、順位つけることで「身体動かす楽しさ」とか知る前に嫌いになる効果のほうが高いんではないでしょうか。絵とかもそうです。子供の絵なんか採点しなくていいから!ほんとに。みんな褒めたげて!子供はみんな褒められて伸びるのよ!

 

Joniの歌にも子供が最初に出会う世界のセンスオブワンダーの素敵さが描かれてまして、わたしはそのように、子供のころっていうのは、順位つけるよりまず楽しいこと、素敵なことをあるがままに感じる、「楽しさとして体験できる」っていうほうが大事くない?とか思ったりもするんですよね。

 

まあでも、世の中的には、このような甘っちょろいことを言い出す人に対しては、

『徒競走で順位もつけない「平等」なんて息苦しい、健全な競争心は必要だ。』

というような説も説かれたりします。

確かに、わたしも「この世から全部競争的なものは無くすべき!」ってほどでもないし、競争の中で切磋琢磨磨かれるものがある、というのもわかります、が、でもねえ、それはもっと上の次元、物事を極めようと努力する段階に入った時点でいいのではないかというか、「競争に参加してあえて自分の力試しをしてみたい!」みたいなチャレンジ精神のある人の修養の励みになるものであって、そもそも「別にここのジャンルで競争に駆り出されたくないんだけど」みたいなところまでくまなく競争化、順位の可視化をされるのってしんどくないですか?

しかし、今の時代は子供の頃から望んだわけでもないのに競争に取り囲まれてるというか、受験戦争からSNSのいいねまで、ドラゴンボールスカウター越しよろしく、「あなたの戦闘力は300です、くっくっく、このザコよ」みたいに可視化されまくり社会ってのもね、なんだかちょっと、疲れません?(はい、わかってるんですよ、ルサンチマン全開の話してるなって。まあ誕生日に免じて許してください)

それに、さっきのわたしの「早生まれは体力的に不利」みたいな話で言いますと、競争の場って、必ずしもイコールコンデションで競争させてもらえるというわけでもなくて、環境とか、健康とか、「実は最初っから同じスタートラインに立ってるわけでもない」人もいますしね。

 

さて。愚痴が止めどなく続きそうなんで閑話休題

冒頭のJoni Mitchellの歌に戻りますと、この歌の歌詞は、そのようなわたしの鬱屈したくたびれ中年視線の話とは全然違いまして、さっきもちらっと述べましたが少年が子供のころの「すべてが輝き、驚きに満ちた日々」を経て、やがて大人になっていく、そのはかなさと、それでもまだ若い人の希望を歌っていてるさわやかな歌なんですけども、歌詞の中でカルーセルだったり、乳母車、三輪車など子供を運んでいく「輪」、あるいは季節の「輪」、サークルの廻るさまが、ちょっと映像的に感じられるような、歌詞の流れがあり、とても好きな曲です。

そして、すごく個人的な体験で強引に結びつけますけど、最近「無法松の一生」という映画(三船敏郎版のほう、いえ、前に板妻版も見てはいるんですが)を見まして、その映画の中でも場面の移り変わりに紙芝居的に無法松が引く人力車の輪が、人生の変遷のメタファーとして印象的に差し込まれているのを見ていたら、この曲を思い出しました。

映画の冒頭、主役の松五郎は最初はまさに「無法松」、破天荒な(つかむちゃくちゃな)エピソードで登場するのですが、実は「最初っから同じスタートラインに立ってない」階級制度の時代の中で、人間の善性の美点を持った小さな、繊細な、不器用な人生を歩んだ男であったことが描かれてゆく、儚くも愛らしい、そして悲しい御伽話です。(まあ、なんつーか、寅さんの原型みたいな...?)

で、クライマックスのシーン、そんな松五郎がいきいきと輝くシーンがあるんですが、その躍動感、ああいう「すがすがしさと豪胆さ」を演じさせたら三船敏郎は本当うまいですよね。って、なんだ映画の感想というかわたしが三船敏郎が好き、という話になってしまいましたが、まあ松五郎とサークルゲームの3月の光のような儚いきらめきに免じて、わたしの積年の呪いもそろそろ溶かして、颯爽と4月にのぞみたいものだなあ、などと思うわけです。ではでは。

 

菜食晩酌日記第19回&ベランダ菜園部早春号

まだまだ寒いですねー。でも日差しはちょっと春めいてきました。めきめき春。

今年の冬はマンションの大規模修繕が秋にあるので、徐々に片付けないといけないためベランダ菜園部も気合が入りませんでした(というかやりたい気持ちは満々なんですができないというか)が、とりあえずほんのちょっとの葉物とカブなんかを育てて、「おっ今日は冷蔵庫が寂しいぞ」って時に使ってました。

 

ルッコラは結構摘みましたがそろそろ花の季節。

青梗菜は極小プランターに4株育ててたんですが、一株収穫した後、ぼやっとしてたらひよちゃんたちに結構葉を食べられちゃいましたね。ひよちゃんとメジロがよく実を食べに来るキンマサキのそばで育ててたのが敗因。実を摘みつつ、口直しにこっちも...てな具合にやられてしまいました。まあ、とう立ち菜の部分だけでも食べようかな。

↑この左上の一番大きいのは収穫できました。

その後。3株あったんですが一株は影になって育たず。残りは葉を食べられたのであきらめモードで放置してたら、気づけばめげずになんとか育ってとう立ちしていたのであった。( 今週のお題「小さい春みつけた」 ですよ)明日にも収穫しよかな。

カブですが、小さいプランターで育ててる割には大きいのが採れました。

上の方はキスジノミハムシちゃんがちょっと食べちゃってますけど、まあ表面だけなんで皮むけばオッケーです。

土から出てた部分をキスジノミハムシちゃんが食べておった。しかし中はみずみずしく、スが入ったり筋っぽいとかもなくて大変おいしいカブでした。

たまにカブって、すごく筋っぽいやつありますよね。あれは育ちすぎると繊維質が育っちゃうんですね。「おおきなかぶ 」というお話がありますが、あのカブ、おいしかったかしらん、ちょと気になります。野菜って、「もうちょっと大きくなってほしいわん」とか欲張ってると大味になったり硬くなったりするんで収穫時期が難しいですね。

 

で、おいしくできたカブはおいしく食べたいわけですが。

わたしはカブが大好きでして、カブっておいしいよね。どういう食べ方が好きかと言うと。

葉っぱをチャーハンにしたり、酢の物にしたり、ポタージュにしたり、グラタンに入れたり、焼いて食べたり、パスタに入れたり、味噌汁に入れたり、そんな感じです。

じゃがいもと一緒にマスタード味でグリル。

葉っぱを細かく刻んで醤油とごま油で炒めて、それを合わせてチャーハンに。ソーセージっぽいものは「ゼロミート」のソーセージタイプ。これおいしい。これとか、あるいは厚揚げをサイコロ切りにしたのとか、大豆ミートのそぼろタイプでもよくて、他のものあまり入れないシンプルチャーハンなんですが簡単であっという間にできておいしいのでお気に入りです。サラダのほうにサンチュとかカブ本体とか入れて。

なんだか昼ご飯みたいですがこれで晩酌です。白ワインが合いそうね。と思いつつ寒いんで赤ワインとかウイスキーのお湯割りとか飲む今日この頃です。寒さにゃ負ける。

 

カブを入れたクリームパスタについては、また別件で書きたいことがあるので(いやそんなにもったいぶるほどの話でもないんですが)、それはまた別の回に。

 

 

今週のお題「小さい春みつけた」

仕事紹介「デジタルエシックスで日本の変革を加速せよ」 倫理のコンパスって?

 

ダイヤモンド社の「デジタルエシックスで日本の変革を加速せよ」(今岡 仁 著/松本 真和 著/伊藤 宏比古 著/井出 昌浩 著/島村 聡也 著 みなさま敬称略で失礼します)のカバーイラストを描きました。さわやかで知的な装丁は新井大輔さんです。

 

デジタルが当たり前の世の中ですが、デジタルを使って便利になる、良いこともたくさんあれば、負の面もありますね。情報拡散力から既存の偏見を増長したり、情報漏洩だったり、AIによる剽窃だったり...というか、なんだかもうこっちの貧弱な頭じゃ考えつかなかったような問題が新たに出てきてる感もあり、社会がSFちっくだなあと感じる今日この頃です。

自分に身近な問題でいえば、だれそれ風の絵柄でこういう状況を描いて、とかAIに頼んだら0.5秒ぐらいで「はいどうぞ」とかなっちゃう世界が到来するとは思わなんだ。あーこわ。なんだったら「大塚砂織風の絵柄でこういうの描いて」ってわたしがAIに頼んだらラクできるんじゃないか、とか訳わからんことになりそうですが、それがアリならクライアントさんがわたしを介さず直接その指令をAIに出すとかもアリなのではないか、とか思うと恐ろしいですね。それ、ナシ寄りのナシでお願いしますね。あーこわ。 

 

って、いきなり脱線気味ですが、まあでも考えてみればデジタルを抜きにしても労働者、それに経営者側はもっと、ですが労働に関わる人は労働倫理を考えなきゃいけないというのは昔からあることなんですが、デジタル社会だとすんごい勢いで「え、この問題どう考えるべきなの?」みたいな新しい事例が起こってくるのでひとりの人間の脳みそじゃ判断がなかなか追いつきませんよね。

そこで、なんらかの倫理的な共通指針があると助けになるということで、デンマークデザインセンターが開発したのが「デジタルエシックスコンパス」というものです。この本はそのデジタルエシックスコンパスを紹介しつつ、日本企業が今後世界でもっと活躍していくためにデジタル倫理を鍛えることの重要性を詳しく書いてるのですが、直接デジタル系の仕事でなくとも、例えばわたしなんかもすでにこのブログはネットを通じて配信してますし、すべての人に関わる興味深いというか必要不可欠な視点だと思います。なお、個人的にはデンマークデザインセンターCEOのクリスチャン・ベイソンさんが倫理の範疇について、「これまでのように人間と環境を切り離した議論ができない」として、これからは人間中心主義を超えて地球主義の観点が必要だというお話をしているというのも印象的でした。

社会や環境のためになることをして、自分たちも利益を得られる、そういうのが真のwinwin、いい感じじゃないかというわけです。いいですね、それ。

 

表紙のイラストは、直接その「デジタルエシックスコンパス」を描くのでなく、行動や開発、新しい時代に向かっていく指針としての役割をシンプルにコンパスで表現しつつ、倫理に基づく新時代に対するポジティブで清廉な気分をとらえてみました。

イラストって、内容を単に説明するだけでは却ってわかりにくいものになる、というケースもありまして、本の表紙のように見る人に直感的に興味を持ってもらえることが大事なメディアだと、内容を噛み砕いてエッセンスにして、わかりやすく、かつ、興味が湧くようなイメージに再構築する、というようなところも大事なんですが、そのプロセスの中で「本来その本が伝えていること」を損なわないように気をつけるのもある種、イラストレーターの倫理かもしれないなあ...と思ったり。少なくともわたしは仕事をする上でそういうことを考えるのを習慣にしてます(お題回収)。

ま、そんなこんなで社会と自分を倫理やクリエイティブのレンズで点検しつつ、AIちゃんと差をつけてなんとか仕事を続けていきたいのである。(が、「人間より倫理的かつクリエイティブなAI」の到来も近いのかもしれませんねえ...そうなったら、うーむ、ぎゃふん)

 

今週のお題「習慣にしたいこと・していること」

どっこい居場所はあるもんだ

うっかりしてるうちにもう2月でした。

こちらの絵はnoranohaカレンダーの2月の絵。noranohaカレンダーには月毎にコメントをつけてるのですが、こちらにはこんな文章をつけております。

ーーーー

2月
椅子取りゲームが苦手だった。

わたしのようにどんくさいこどもはすぐにあぶれてしまう。
だいたい、人数分の椅子がないなんていじわるだ。

椅子なんて、余ってるぐらいで丁度いい。
いつでもだれでも休めるところがもっともっとあるといい。

ーーーー

まあ、みんなに自分に居心地のいい居場所、お気に入りの椅子があってほしい、みたいな感じです。てへっ。

 

ところで椅子と言えば、最近わたしはマンションのせまーい玄関で靴紐を結ぶために座れる超小さいお手頃プライスの椅子を買ったのですが、これが非常に使いやすく、なんで今までここに椅子を置くことを考えなかったんだろう、とひとりごちております。いや、狭いから置けないと思ってたんですが置こうと思えば置けるもんですね。

どのぐらい狭いかって、こんなにせまいんですよ!(お見苦しい玄関で失礼します)

(ちなみにこの扉は昔先代の猫ちゃんが常に我強行突破せんとアタックするので困りはてて脱出防止用につけた扉ですが、冷気もシャットアウトしてくれるのでこれも重宝しています。)

話が脱線しましたが、探したら(楽天)こんな便利サイズの椅子があったんです、成せば成るものです。

 

成せば成るといえば、うちのベランダでも最近自分の居場所を開拓してる脱走者が2名。

多肉植物のちっちゃい鉢になぜか根をおろしてしまったカブ(上)とサンチュ(下)でございます。(どこにでも出没するひよこぐさちゃんもおりますけども)

カブ用に植えたプランターとサンチュ用に植えた鉢が別のところにあるんですが、そっちの発芽率がいまいちだった割に、なんでこんなところに飛んでるんだ。タネ植えた時別にそばに置いてなかったと思うんだけどなー。アリが運んだとかでもなさそうだし。謎です。特にカブ、そこでどうやって大きくなろうというの。むむむ...。

というか、そもそもこの多肉たち、他の鉢でぎゅうぎゅうになってたんで株分けして居場所を作ってみたんですが、早くも軒を貸して母屋をとられそうという窮地に陥っているのですが、怠惰なベランダ天地創造主(わたし)は野菜ちゃんたちがもうちょっと育ったら収穫しようかなと今のところ静観しております。ではでは。

クレヨンが足りない

今日はちょっぴり真面目な、というか内省的な話題なんですが。

世界というのは常につらいことが起こっていて、今も昔も悲惨なことは起こり続けているんですが、最近はネットの普及により、世界のあちこちで起こる様々な抜き差しならない問題について情報が絶え間なく入ってくるので、無力感や罪悪感に向き合う機会も増えたような気がします。

知るのだけど、できることは少ない。もちろん、小さくともできることはあると思いますし、例えば今回の地震などでも、ほんの少し寄付してみたり、ガザの空爆とかいますぐやめてほしいので署名とかしてみても、したからといって世界は1オングストロームもびくともしないのであり、途方に暮れつつ、夕飯は何にしようか。とか、自分のくだらない失敗とか、お金の悩みとか、くよくよと個人的な人生の悩みなどで忙殺され日常を生きつつ、いっぽうで世界に充満するその「どうにもならなさ」をどう考えていいのか、ため息なんですね。

自分がすごく若かった、物知らずな頃には、社会の悲惨というのはもう少し距離感を保ってるというか、例えば過去の出来事だというか、悲惨は克服され過去になっていくものだという思い込みがあったんですよね。「過去に世界大戦があった(これからは繰り返さない)」、というような過去形の歴史。

あるいは、良心的な知識人などの著作を読んだりすると「それでも世界の良心の総量は増えていくはずだし、少しずつ良くなっている、というかよくしていけるはず」というような楽観的な希望もちょっとは感じたんですが。

しかし、ある程度人生を生きてくると、わたしが生きてるうちにもう世界ではいっぱいずーっと戦争し続けてますし、未曾有の大災害、悲惨な事件みたいなのも国内でももう何回も起こってますし。CO2も増え続けて、静かに多くの動物たちも世界から絶滅してしまっていますし、世界は平和なんかではなくて悲惨と共存してるままだというのがわかってくる。そういう世界で、でもまあ、自分の日常はそれなりに生きている、というか、生きてかなきゃなんないしね、という「どうにもならなさとの共存」には慣れっこになってるはずなんですが。

 

ですが、が多いですね。

 

でも、今、毎日赤ん坊とか爆弾で吹き飛ばされてる写真とか映像とかばんばん流れてきてて自分もだけど誰も止められないというのを見てると、もうなんか滅入ってしまって、何をやってても気が晴れない、晴れないけども普通に暮らしてる。で、またそれに気が滅入る。わたしたちも属している「近代西洋社会的価値観」は人権が礎だったと思うのに、「人権適用外の人がいる」って堂々とやっちゃってるのをリアルタイムで見ると、どうしても混乱せざるをえない。どうなっちゃってるの。

繰り返しになりますがこれって今に始まったことじゃなくて、ずーっとやってたわけで、パレスチナはずっとだし、イラク戦争とかシリアとかコンゴとかイエメンとかウクライナとか、そういうのが起こり続けてるのにものうのうとぼんやり生きてたのに、急にネットで自分の観測範囲内にその抜き差しならなさがどんっと置かれたからといって狼狽して嘆くなんて、何言っちゃってるんだいこのうっかり者。って自分に情けなさを感じます。

なんだか最近ブログとか、SNSとか全然やる気が起きないのは、やっぱりこの辺、もやもやとしたわだかまりがあるからなんだな、と思ったんで、せめてここで頭を整理するためにこうして書いてみたりしちゃってるわけです。書いてて全然整理されませんね、こりゃ。

 

先日、イスラエルがガザに残った最後の大学に爆弾を落として、盛大に吹っ飛んでしまった映像を見たとき、わたしは昔読んだ本の中のある文章を思い出しました。「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」というロバート・フルガム著1990年のエッセイ集で、その中に「クレイオラ爆弾」というのが出てくるのです。

クレイオラ爆弾というのは何かというと、上空で爆発するとふわりふわりと無数のクレヨンがパラシュートをつけて降りてくる。紛争が起きるたびにこれを投下したらいいのでは、と著者は提唱します。人々は落ちてきたクレイオラ(しかも豪華64色入り)を手にすると、まず戸惑いの表情を浮かべ、そしてすぐに満面の笑みで世界を想像力で塗りつぶす、という寸法です。わたしの弁では力不足なので、ぜひご本人の言葉を読んでほしく、ここから引用します(問題があったら取り下げますのでご一報ください)

 

『何を馬鹿なことを、とお思いだろうか?たしかに、いくらか幼稚な考えかもしれない。常軌を逸した、愚かしくもむなしい発想と言われてしまえばそれまでだ。だが、しかし、今朝の新聞でわたしはソ連政府とアメリカ議会が兵器のためにどれだけの予算を確保したか読んだ。いったい、そんなにしてまで兵器を買ってどうしようというのだろうか?それこそ常軌を逸した、愚かしくもむなしいことと言うべきではないか』

 

まあ、まず「クレイオラ爆弾を落とさなきゃいけない場所はどこか」って言ったら、爆弾を落としてくるような人たちがいる場所ですよね。なんでその人たちは人々の頭の上に本物の爆弾を落としていいと思ってるのか。爆弾のスイッチから手を離してクレイオラを握ってほしい。ハワード・ジンがかつて、現代戦争は犠牲者がほとんど民間人であること、民間人に対して仕掛けられた戦争だということを指摘していましたが、なぜいまだにこんなことになってるんでしょうか。

「ひとの生活に頭の上から爆弾を落とすなんてひどいありえない、絶対やっちゃだめ」というコモンセンスを持った社会、困ってる人を救うことに尽力する社会であってほしいなあ、というか作らなきゃなあ、と思うんですよね。

動物も植物もですよ。みんな一生懸命生きてるのに。今訳あって土壌について調べてるんですが、土だって、爆弾とか化学兵器とかで荒廃汚染させてる場合じゃないですし。

 

起こってることを今すぐどう止めていいのかはわからないけど、これから起こさないためにはやはりクレイオラ爆弾は必要だと思うんですよね。爆弾のスイッチやらお金やら憎しみやら賢しらぶった「爆弾を持つ理由」を握りしめるより、クレヨンを握る人、つまり、クレヨンからはじまる、五感や感受性の営み、笑顔、そういうささやかなことひとつひとつのかけがえのなさを軽視しない人を選ばないと。そういう人を選ぶため、選ぶ側のわたしたちにもクレイオラがもっと必要かもしれないなあと思ったり。

 

今日の文章はなんだか言ってることがとっちらかってるし、そもそもわたしがえらそうになんでそんな壮大で世間知らずな話をしてるの?恥ずかしい。とも思いますが、"取り澄ましってのはね 君が人生でほんとに言いたいことからきみを遠ざけてしまうのさ" って、だれかも歌ってたことですし、とりあえず書いてみました。こういう話はSNSなんかで短くできる話でもないので、ブログにしたためております。長いことSNSしたり見たりしてますが、どうも根本的にSNSが苦手なのかもと最近つくづく思っています。それはまたまあ別の話で、今日はこの辺で、ではまた。

 

追記

「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」は調べたらつい最近、決定版と銘打った文庫版が出たみたいです。ここで紹介した話以外にも「わたしは人魚」とか、「タンポポがいっぱい」とか、とても好きな話がいろいろある一方で、これを書くにあたってうちにある初版を読み返したら、昔と感じ方が違う話も結構ありました。昔の自分はどう思ってて今なぜそう思うのかなどを掘り下げたり、そういうのも含めて本というのは、賛同だけでなく批判的にもじっくり読んだり、また、繰り返して読んだりできるのがいいねと思います。なお、アマゾンのレビューをちょっと覗いたら、「幼稚園をめぐる教育本やあるいはノウハウ本」だと誤解して読んだ方も何人かいらっしゃったのをお見受けして、本のタイトルのつけ方って難しいなあ...とまた別のことも考えちゃいました。