saoriotsuka-diary

イラストレーター大塚砂織の由無し事を綴るページです。仕事の紹介もしますが、ベランダ園芸の話やたわいない話が多いかも。

佃煮をお探しですか?

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と、amazonからメールが来たのです。いや、全然お探しでない。そもそもamazonは滅多に利用しないのです。が、よーく考えてみると、多分随分前に、海苔の佃煮が食べたくなって、調べた事があったような気がします。そんな昔の事を覚えていたのか、お前は。そして、その時に結局amazonでなく近所のスーパーで買った海苔の佃煮があったはず、と思い至り、食品庫的なゾーンを探したら、ありました。賞味期限、大丈夫かしら。と思い確認しましたら、今年の10月まで大丈夫でした、ほっ。しかし、完全に忘れていたので、いけないいけない。早く食べなければ。

 

最近は便利なサービスがいろいろあって、たくさんのリマインダーがメールやSNSに舞い込みます。ひとつひとつは小さなお知らせですが、積もり積もると生活の中の集中力というかが削られるというか、散漫になる気がしますね。常にセールのお知らせ、新商品の紹介、この人が投稿しました、以前寄付や署名したこの件に進捗がありました、などなど、確かに知ると便利な情報ではあるのですが、わたしの脳はあまり情報処理容量が大きくないので、メールチェックのたびにうっかりそこに誘導されたりして、はて、わたしはそれまで何をしてたのかしらん。となってしまう事が多いです。

 

その割には、本当に重要な事のリマインダーをうっかり見逃したりして、カレンダーに仕事の〆切りなどの予定を書いてるのですがいつもヒヤヒヤです。よくあるのが、「カレンダーに自分が間違った予定を書き込んでしまった、あるいは書き込まなかった」という事例で、いくらハイテクの現代でも、そんな基礎的なミスをするような場合はどーしよーもないですね。とほほ。

また、通知が多すぎて大事な仕事のメールが埋もれてしまったりするのも大問題です。なるべく余計なメルマガや宣伝が届かないように設定するんですが、そのサービスを解除するためにログインするためのパスワードが忘却の彼方だったりするものもあり、それこそ誰か、思い出させて!って感じです。

 

そして、たくさんの思い出さなければいけない事に囲まれてはいるんですが、本当にわたしが思い出したい事とはなんだろうか、とフト思ったりします。

 

先日夕方、遠くのスーパーまで散歩がてらに歩いて買い物に出かけたのですが、逢魔が刻のはかない時間、世界中が不思議なピンク色の夕焼けに包まれ徐々に蒼い夜に変わっていくのを、しばし立ち止まって眺めておりました。子供の頃は、こういう時間、暗くなるまで疲れを知らずに外で遊んでいたなあ。あるいは、仕事を終え、寝ようかという時間にもう朝日が上がってるのですが、窓を開けると、空気の匂いがなんというか、林間学校に行った朝の、期待と不安の入り混じった気分を急に思い出させてくれる事もあります。

 

本当に「思い出したい」ものって、新鮮な喜びや期待、胸ときめく好奇心なのではないか、と夕日にひとりごちる中年(というかもう中高年ってやつかも)です。そして、そうした気持ちをいつもふいにリマインドしてくれるのは、巡ってくる季節の機微だったりしますね。いい年しても人間ってやつは(主語がでかい。わたしは、ですね)夕日に胸焦がしたり、海岸で貝殻拾ったりしたいのです。もっと時を惜しんで、季節に身を浸したいものだなあ、という思いと、いや、大人なんだから仕事とか忘れてぼーっとしてはいかん、いつまで夏休みの子供気分なんだ、自分。という呵責の間でせめぎ合う夏の夕暮れです。

楽園を舗装しないためには?

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わたしはツイッターで、海外の気候学者とかジャーナリストとかをフォローしたり眺めたりしてるのですが、先日NASAの気候学者ピーター・カルマス氏が、このようなツイートをしてたのですね。

 

ご本人のコメントにもあるように、悲しいですよね。それに、ここのところ、地球上あちこちで高温、山火事、洪水などの悲しいニュースもよく聞きます。そして、ちらほら「それらは気候変動の影響」という見方も伝え聞きます。しっかし、どうしてこんなに気候変動が深刻になっちゃったのか。遡ればそれはもう、1980年代には科学者たちに危機を指摘されていたことなんですが、あらうっかり。わたしたちの社会は「危機だから対応しなきゃ」と掛け声を上げつつも、いろいろありまして現実にはCO2などグリーンハウスガス排出量は全然減るどころか、増える一方だったのですねー。そして、人類はCO2を人工的に回収する技術を大規模実用化していないという現状の中、しかし!有力なCO2回収技術はすでに地球上に存在するそうです。それってなに?

...なんのことはない、木が、森が、そして海が吸収してくれてるんですよ。あら、なんてありがたいの、自然。人間の不始末をフォローしてくれてるんですね。が。上の写真みたいに、その吸収源を、しかも何百年とか何万年単位で育んできた森林システムをあっちゅう間に換金し続けたら、お先真っ暗だろうなあ...と思います。

 

ジョニ・ミッチェルの歌に「Big yellow Taxi」というのがありまして、その歌はジョニがハワイに行った時に、すばらしい環境と自然があるのに、こんな楽園を舗装して、駐車場は作っちゃうわ、自然に生えてた木を引っこ抜いて博物館で展示してるわ、なんかそういうのって、当たり前になっちゃってるけど、おかしくない?というような感想を述べた歌なのですが、現在に至るまで化石燃料を掘るために膨大な環境破壊をしてますし、最近も急激にアマゾンや東南アジアで農業やバイオ燃料の需要でせっせとかつてない規模で熱帯雨林を減少させてますけど、他にも太陽光発電(それ自体は大事な再生エネルギー選択肢ですが)の為にこれまでは環境アセスメントもそこそこに炭素吸収源である森を切っちゃったりもあって、わたしたちの社会はちぐはぐな事をやっちゃってますね。

 

木を切って一度更地になってしまったところも、放っておけば、あるいは植林などすれば、木はまた生えてくるかもしれません。でも、そこに住んでた多様な生物はそこで一旦絶滅してしまえば二度と帰ってきませんし、単に木を植えるだけでは、微生物や菌やらから大型動植物まで、相互に複雑に絡み合って成立してきた生態系は戻ってこないそうです。最近の議論では、気候変動問題は排出ガスに対処するだけでなく、生態系保護も非常に重要だという話もあります。これ以上物事を悪くしないために、持続可能利用をする場所だけでなく、できれば「何もしないでそっとしておく」ほうがいい場所も地球上にはもっと必要なのですが、それがどんどん少なくなってるのですね。ゴリラの生息地も、サンゴ礁も、このまま人類の地球浪費と無策をほったらかしてたらあと30年でほぼなくなるって話です。

 

他人事みたいに言っちゃってますが、自分がやってる事もそれに大いに関係があるわけで、以前にバンクシーだったか、誰かが書いたこんな風刺画を見たんですが、残念、その風刺画を今発見できないんで、わたしの記憶による再現でお届けします(ですのでこのまんがはわたしのオリジナルではありません)。

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あーあーあー。そうだよね。これを見た時結構落ち込みました。わたしもこれ、やってるやってる。うちにある家具だって全部どっかの木を切ってきたものですし、わたしは仕事柄紙の消費が多い自覚があります。木だけでなく、あらゆるシーンでやってる自覚あります。とほほー。けれど、人間はまったく消費をしないで生きていく事はできませんし、必要な消費もあります。住む家や食べるもの、移動手段などは必要ですよね。電気を節約しよう!と言って灼熱の真夏にエアコンをつけなかったら命の危機です。

うーん、でも、どこか、無駄にしてる部分も多いかもしれませんね。何かもっとよりマシな代替の選択肢もあるかもしれません。

 

では、こういう問題を緩和するために、なんかしらわたしにもできる事はないかしら、と思って、わたしは電気会社を再生エネルギー100%の会社にしたり、菜食をしたり、フードロス削減のためコンポストをしたり、プラ包装をなるべくもらわないように気をつけたり、まあ、無駄な消費をなるべくしない努力をちびちびしていますが、一人一人ができる事は超微力で、「大事なのは個人努力でなく、システムチェンジだ。個人努力のほうに気をとられると本質を見失うのでよろしくない」と言う人もいます。確かに、こっちでちまちまミクロの努力をしても、蛇口を閉めなきゃどーにもならん。という事は往々にしてあります。わたしが紙をリサイクルに出したって、そのリサイクルはちゃんと機能してるの?とか、一方で「この森を切り開いて駐車場にします」とか行政が決めたら、ああ無力。でも、いえいえ、ああ無力、で終わらせちゃあいけないよね。じゃあシステムをどうやってひっくり返すかというと、「蛇口を閉める必要がある」と思う人が増えないと、政策なり消費動向なり予算投入なりが変わらないのではないかな?と。

そこで、人間誰しも身に覚えがあると思うんですが、自分が関心のある事には詳しくなるし、どこに問題があるのかもはっきり見えてくるもので、個人努力をするというのは、そういう「問題点が見えるようになるための入り口」だという効果が大きいのではないかと思います。やってる人のほうが、やっても報われなさがわかるわけで、どーにかするには社会を変えねばならん。と思ったりします。さっき「うちにある家具だって全部どっかの木を切ってきた」と書きましたが、なんらか減らそうと意識するとまず「それはどこに生えてた木でどういう経過を辿ってうちに来て、うちから先はどこにいってどーなるのか」を考えるようになります。また、スタジアムのロックコンサートを考えればわかると思うんですが、一人一人ファンが支持して集わないとあのぎゅう詰めの会場の興奮は生まれない。環境問題で言えば、個人努力に積極的な人はコレクティブアクションの大いなる応援団になるポテンシャルがあると思います。

また、個々の影響力という意味では、逆に海辺いっぱいのプラゴミも元はと言えば誰かが気軽にポイと捨てたり、あらうっかり風で飛ばされちゃったり、みたいなものが集合体になって浜辺を覆い尽くしてるわけですから、個人の影響力も侮れないっちゃ侮れないと思います。わたし達が直接アマゾンに行って木を切ってるわけじゃないですが、木を誰かに切らせているのは誰か、となると、まあ、わたし達にもまあまあ責任あるんじゃないかなあ、と、いう。(それに、個人消費が実際に大きな影響の一端であるというお話もあります。それはまたおいおいに)

 

しかしもちろん、忘れちゃいけないのが、そのように個人で努力する事が可能な状況もあれば、皆大変な人生を生きてるわけですから、貧しかったり健康でなかったり状況がままならず、そういう行動が取れない人や場合というのが必ずありますし、すでに多くを持っている人が持たざる者に負担を強いるのも不公平です。また、個人同士で「お前は努力が足りない!」とか責めたりするのも本末転倒というか非常にダメだと思います。(こういう話でありがちなのが、「お前はAという事に取り組んでるのに、Bに取り組まないとはなんたることだ、けしからん。」みたいな展開ですが、人間のリソースは有限かつ人間はうっかりしてるので、そういう事はまあ、起こっちゃいますよね。現にわたしも逆に環境負荷の高い行動もたくさんしてると思います。そこを克服する智恵もまたどなたかに借りたいなあと思いつつ。)しかし、個々がささやかでも何か実行可能な事を考えてみたり、知恵をシェアしあったりして社会を後押しし、全体のシステムを変えるきっかけを作れる部分もあるかなあとも思うし、「自分にもできる事があるのでは」という希望を持つのは「自分は無力だ」と思うよりは問題解決には大事ではないかとも思うんですよね。ピープルハブザパワー。個人の生活でもできる事をやりつつ、コレクティブアクションにつながるような「できる事」も探したいなあと思う今日この頃です。

 

追記:

書いてるうちになんだか壮大な話になってしまいましたが、なぜしがないイラストレーターが、こんな壮大な話をしてるのかというと、まあ、地球に住まわせてもらってるから、気になるんですよね。だって、木々や動物や虫たちがいなくなったら悲しいし、自分たちが住めなくなったら困るし。

https://twitter.com/ClimateHuman/status/1414052039101878274?s=20

赤にこんがらかって

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以前にも紹介したんで覚えてる方もいるかと思いますが、ベント・ファン・ルーイさんという方がわたしは好きなんですが、このビデオ↓が特に好きでよく見ます。好きな物は何度も咀嚼するタイプですみません、お付き合いください。

 

youtu.be

画面の中にところどころ散りばめられた赤の使い方がとてもおしゃれで、見てるとなんだか絵心をインスパイアされるんですよね。見てると次々絵のアイデアが出てきます(↑上の絵はややそのまんまシーンを切り取りましたが、そういう直接的な刺激だけでなく、何か発想のきっかけになることが多いのです)。ビデオ自体も、様々な映像作品やカルチャーのオマージュになってるようで、どれがなにの、と指摘できるほどわたしは事情通ではないんですが、何度見ても楽しめます。

 

赤と言えば、先日小津安二郎の「浮草」を見ていて、この映画(や、他の小津のカラー映画もですが)やはり赤の使い方がいいですね。と、散々言い尽くされたことをわたしなんぞが言うのもなんですが、本当にいいものはいいのだからしゃーない。

 

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まあわたしは映画通とかでもないので、アグファカラーがどーのこーの、みたいな話はしませんが、京マチ子の燃えるような怒りも、ケロっと柔和になるさまも、赤と浴衣の大胆でシンプルな柄が引き立てていますね。小津映画は、家父長制ど真ん中みたいな話が多いですが、そうした現状の有り様を定点観測的に映しながら、最後はさっぱりとその世界が終焉していくんですよね。家族や一座や旧価値観は解散し、新しい世界に移っていくあっけない潔さと少しはかない寂寥を淡々と描いていて好きです。小津映画に添える赤にはそのすがすがしいモダンさがよく表れている気がします(って、書いてるうちになんか通ぶってきてしまいました、はずかし)

 

映画の中の赤と言えば、ゴダールとかフェリーニなどなど昔の映画(漠)には赤がおしゃれに使われててまぶしいものが多かったですね。わたしはおしゃれ通でもないんでお前がおしゃれを語るなって感じなんですが、映画の中のシーンのちょっとした服装などをおしゃれの参考にすることは多いです。ファッション誌を見ても、なんだか自分と縁遠い気がする事が多いというか、「いやいや別にこれわたしには似合わんよね」みたいな冷静な判断力の方が勝つのに、映画の中ですてきな赤いマフラーとか見ると、自分に似合うかとかより「ああ、わたしもあんなのしたいな、こんな風にチェックのズボンに合わせて秋の並木道を歩いたらすてきな気分であろう、うん」みたいな事を思っちゃうんですね。なんでしょ、映画の中は魅力的すぎて幻惑されちゃうんでしょうかね。

 

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絵で赤を使う時は、結構他の色と合わせるのに苦労する、というか、もうなんか、赤と黒だけでいいような気がしてしまう事が多いです。もちろん、青、黄色など同じような明るい色と組み合わせるのもポップでいいし、そういうのも好きなんですが、黒と赤を使っちゃうと、他にはもうなにもいらないかな、と思ってそこで筆を止めたくなりますね。

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ところで、今日のブログのタイトルはボブ・ディランの「ブルーにこんがらかって」のもじりなんですが、この曲、タイトルに「ブルー」と入ってるんですが、曲の冒頭は主人公が赤い髪の女性の思い出を語るところからはじまります。

聞き手は燃えるような赤い髪のイメージから主人公の世界に共に入り、映画の回想ショットのように綴られる断片的な彼の様々な場所と時間のエピソードを体験します。靴を流れる雨筋、暗くフェイドアウトする通り、青空を切り裂いて飛ぶ鳥、横顔を照らすスポットライト、主人公の顔に刻まれたシワの線、解けた靴ひも、など、糸を手繰るようにイメージを喚起する言葉が散りばめられていきます。そして、やがて、彼の青い混沌の中に閉じ込められた流浪の人生を運命付けたのは、ある一冊の詩集により焚き付けられた炎だったというのが明かされていく、という感じで、赤が詩の裏テーマになってるのですね(とわたしは思います、ボブおじさん通でもないんですが)。激しい赤と、透明で寂しい青の孤独のコントラスト、色の構図を目でなく耳で味わえるという趣の歌で、さすがボブおじさん、冴えてるう。一方、冴えてないわたしは今回赤を手掛かりに文章を綴ってましたが、なんていうか、ちょっととりとめのないお話になってしまいましたね。こんがらがっておる。ではでは。

 

 

 

 

 

ブログ引っ越しと旧ブログの「仕事紹介」記事へのリンク

ブログをブロガーからはてな(ここ)に引っ越してきました。

とはいっても、前のブログの記事は残したまま(こっちに全部引っ越してくるのが面倒でした)なんで、向こうも普通に見られます。これからの新規の更新はこちらでやる感じです。今年分まではこっちにも転載しときました。

サイドバーに旧ブログへのリンクもあります。

 

そんでもって、過去の仕事実績紹介の記事だけ特に参照する場合のため、旧ブログの仕事タグへのリンクもつけておきますね↓。

saoriotsuka.blogspot.com

ブロガーにブログを引っ越したのが2007年だったので、2007年〜2021年分、自分で見返してみたんですが、わたし超いっぱい仕事してますね。ここに紹介しそびれてたのもいろいろあったんで、人生通算書籍装画はもう400冊はゆうに超えてるんじゃないかなと思います(...数えてないんですが、仕事生活24年目なので、月平均3冊手がけてたとすると、えーと、ま、もっとありそう)。どの仕事も手を抜かず一生懸命やっておりますが、一時期とか、忙しくてアップアップでした。最近は一時期よりはもう少しのんびりしてます。もっと忙しくしててもよい(というか、まだまだバリバリ忙しくしてたいですよ!)し、アイデアは湧き出る一方なんで、これからもビバ!お仕事ですー。HPのリニューアルが終わったら、今までの仕事からも温故知新でこちらでもっと紹介してみようと思います。

じゃがいもが微増した話

 

 
 
台所の野菜カゴの中で、芽が出たじゃがいもが転がっていたのを発見する事、まあまあありますよね。大抵は芽を取りのぞいて食べますが、前回それを見つけたのは3月の初めでありました。3月の初めといえば、じゃがいもを植えるちょうどよい季節。よく栽培指南には「食用のじゃがいもは病気があったりするので種芋に使わないように」とのお達しがありますが、ベランダで一鉢で育てるなら、周囲に病気が広がったりするわけでなし(※)、育ててみちゃおうかなー。こんなに勢いよく芽吹いちゃってるしなー。少し暖かくなって園芸熱も温まるこの時期、考えたらオラ、ワクワクしてきたぞ(使い古された言い回し)。というわけで、植えてみました。

 

しかし前にも書いたように、うちのベランダは日当たり好条件の一等地が少なく、しかもその時空いてる鉢にちょうどいいのがなくて、ちょっと小さめの8号鉢だったので、うーん、どうかなあ...。と思いつつ植えたのです。

じゃがいもを植える時は土があまりアルカリに傾くと、そうか病という芋の皮の表面ががさがさになる病気がでます。なので、石灰は撒かず、使い回しの土にコンポスト腐葉土、油粕、少し草木灰など入れて植えました。前に畑で育てた時は少しそうか病出たんですが、味は全然変わらないので、商品にするとかでなく自家消費する分には気にしなくていいんではないかなと思いますけど。畑ではじゃがいもはごろんごろん大収穫でホックホクでした。ああ、楽しかったなあ...畑。

さて、しばらくすると、案外しっかりした芽がぐいぐい伸びてきました。おっ、これは幸先良さそう。 

 

 

 

 けれども、悲しいかな、いい感じの場所を用意してあげられず、こういう感じで配置しておりました。

 

 
 育つにつれて日照を求めてアクロバティックムーブになってきており、風も激しいんで、大丈夫なのか。すまんね、いいところがなくて💦

 


 育ってくると芽かきをして、茎を2本ぐらいにするのがよいのですが、ここの超強風環境で、茎を少なくしてからもし風で折れてしまったら全滅の可能性もあるので、ここは3本残しておきました。人生リスクヘッジ

 

5月になり、花が咲きました。じゃがいもの花といえば紫色のかわいい花なんですが、この苗の花は小さくて白い花でした。えーと、品種、なんだったっけ...覚えてないけど、つまり男爵やキタアカリではなかったのだな。花をつけたままにしておくと芋が太らないので摘みました。(すぐ摘み取っちゃったんで写真はありません)

じゃがいもの芋は種芋より上のゾーンにつくんですね。 なので、表面に芋が出てきてしまうと、日に当たってソラニンが形成されてしまうんで、土増しをします。できてるのかしら、芋...と思って土の表面を軽く掘ったら、塊に触れました。あっ、いる!芋、いる。ニヤリとほくそ笑んで、あわてて土をかぶせておきました。

 

6月、そろそろいいのでは...。雨続きになるとの予報の前に、ちょっと早いですが掘り上げてみました。 

 


 

 

おっ、いっぱいありそう!

と、思ったんですが、残念、ここに見えてるのがめぼしいやつ全部だったんですねー。

というわけで、結果、これだけ収穫できました。

 

 食べれるサイズは3つ。1個は結構大きかったです。まあ、鉢も小さいし、悪条件だったんでこれだけ採れれば良しとしましょう。

 

小さいのはソラニンが多いらしいので、食べるのはよしておきました。また埋めて種芋にできるのかしらん?まあ、育たなくてもコンポストしとくかな。

 

そして、何にして食べようかしら。今一番食べたいもの、そうねえ...。コロッケ!

大豆ミートと玉ねぎみじん切りを炒めて、レンジで蒸した芋(ちなみに、ガスで茹でるよりレンジで蒸した方が環境負荷低いらしいです。うちは電力会社が再エネ100%なので余計そうですね。まあ、他でいろいろ環境負荷かけてるんで焼け石に水感はありますけど💦)と合わせて水溶き小麦粉(卵なしでもこれでいけます)とパン粉をくぐらせコメ油でフライパンで揚げ焼きにしました。ついでにズッキーニも揚げた。アゲアゲ。

 


 

 

ああ、揚げ物ってなんでこんなにおいしいのかしらね。罪なやつよのう。

ところで、ここにあるこれ、なんだと思います?

 

 
よく揚げ物するときに、パン粉とか溶き粉とか微妙に余って「なんかもったいないな...」となるので、わたしはそれらを一緒にしてハーブとか塩とかで味付けして、少しベーキングパウダーを入れて団子状にまるめて揚げてしまいます。ベーキングパウダーを入れるとふんわり仕上がりますが、入れないとカチカチな感じになってうまくないです。このよく分からない謎の揚げもん、まあ、すっごいおいしい、とかでもないんですが普通においしく食べられるので「アンチフードロス食」としてはまあいいんじゃないでしょうか。

 

というわけで、二人でこの量食べちゃいました。我ながらよく食べるね、うん。ああうまかった。育てるのは4ヶ月近く、食べちゃうのは一瞬。あっけないものですねえ。とはいっても、基本は水やりだけしてほったらかしてれば、勝手に育ってくれたんだから、ありがたいもんです。本当芋ちゃん、えらい!あれ?芋の品種、結局分からずじまいだったな...。

 

 

市民農園や畑など共同で土地を使ってる場所では病気を広げる可能性があるので、やはり食用芋を種芋にしないほうがいいですね。

ミネルバのふくろうは楽しい方に飛ぶ

 


 

また今夜もやつが涙を目にいっぱいためてわたしが恋しいとメールしてくるのである。ごめんよ...今日もやる時間なかったぜ。というわけで何の話かというとDuolingoです。Duolingoはネットやアプリで無料で利用できる語学学習アプリで、しばらくやらないと催促のメールが来るのです。

 わたしはフランス語を10年ぐらい習っていたのですが、コロナ禍で通学が難しくなってしまい去年止めてしまいました。人間の脳というのは一体どうなっておるのか、学ぶ時にはあれだけ時間をかけたのに、消え去るのはあっという間。あーもうなんだっけ、活用とか、綴りとか、瞬く間に露と消えてしまったので、こりゃいかん、と時々Duolingoで復習しています。それと、オランダ語に興味があるので、そちらも時々。

 

Duoは初学者向けなんで超簡単な所から入りますし、低レベルの所での繰り返しも多かったり、それをスキップしようとテストをやると、Duo例文に沿った回答でないとバツにされたりするんでなんか結局簡単な所をぐるぐるやる羽目になってしまったり、などもあるんですが、ちょこっと勉強するのにはよいです。フランス語の復習には全然物足りないけど、全然知らないオランダ語の勉強にはちょっといいかも。なにせ、まったく読めない暗号みたいなものが、なんとなく続けてるうちに一応意味をなした文として解読できるようになる、というのはちょっと楽しいものです。そして、Duoの一番いい所は、大した事もしてないのにやたらとほめてくれる所です。勉強って、怒られたりけなされたりしながらやると楽しくないですよね。

 

わたしがフランス語を始めたのはそもそも、一日中仕事机にへばりついてるだけの毎日にちょっと疲弊してたので気分転換の時間を作りたかったのが動機でしたが、それでフランス語を習得できたのかというと、結果からいうと、別に仕事で使えるとかそういう風には全然ならず趣味レベルでしたので世間的に言えばやってる意味は全くなかったとも言えます。が、「勉強における恥をとっぱらう」という経験ができたので、わたしにとっては非常に楽しく身になりました。この、「恥」っていうのが人生のネックだと思うんですよね。

英語って、たいていの人は義務教育期間で6年〜ぐらい勉強してるはずなのに英語を発語する事が恥ずかしくないですか。わたしは長らく恥ずかしかったです。だって、間違ってたりしたら、恥ずかしいもーん。しかし、フランス語教室に入ったら、クラスメートも全員デヴュタン、初心者。「できなくて当たり前」であり「話せるようになりたい気まんまん」であり、つまりは人生で初めて、お互い恥ずかしいとか考えずに外国語を気軽に話せる場だったのです。また、先生も決して人の発音や間違いをばかにしたりせず、怒ったりさげすんだりもせず、淡々と必要な事を必要なタイミングで教えてくれ、要所要所褒めたり補足してくれたりと非常に優秀な先生たちでした。発語するのが怖くない。これってすごく大きなパラダイムシフトで、おかげでフランス語だけでなく英語を話すのも(下手くそさは変わってませんが)ハードルがかなり下がったと思います。というか、語学に限らず、「自意識を棚に上げて興味や目的に集中するといろんな事がラクで楽しくなる」みたいな気づきがありましたし、副次的効果で、かなり人見知りな方だったんですがそれも少し軽減した気がします。

学校教育の初学って、それと真逆な面が往々にしてあって、体育とか、図画とかでも、興味を持ったり楽しんだりする前に「人と比べてお前は劣っている」みたいな事を白日の元に晒すような体験の方が学習そのものよりも多く積み重なっちゃってませんか。でも、考えてみると、その道のプロになるとかでない場合、学習って「物事を理解会得する事で自分の人生をより便利にしたり、豊かにする」のが目的なわけで、「必要なものを必要なだけ」学ぶなら、人と過度に比べたり競争したり劣等感を持ったりなんて、それこそ必要ないのでは。と思うのです。

わたしは絵を描く仕事なんで、よく人から「絵が描けていいですねー、わたしなんか本当に下手で、絵心なくて」と言うような話を聞きます。で、そういう人が絵を描いてみると、別に全然下手じゃなくて、わたしなんかよりむしろ新鮮で味があるいい絵を描いたりしておりびっくりする事があるんですが、そうなると

「誰じゃこの人に余計な劣等感植え付けたのは」

って気分になる事が多いです。実際、学習上で「先生に怒られた」「皆に笑われた」的な経験を持つ人の話も多々聞きます。基礎教育ぐらいのまだ「お試しパック詰め合わせ」的な勉強段階でその人の心に傷をつけ、必要なスキルでなく一生もののコンプレックスや自意識の壁を教育してしまうのだとしたら不幸な事ですよね。...ええ、わたしの場合、体育なんて大っ嫌いですとも、今でも。ぐすん。

しかし実際、今これを書きながら「こんな低レベルな話を語学ペラペラな人に読まれたら恥ずかしいな」みたいな自意識とやや戦ってるので、学習における「恥」の呪縛はなかなか強いとひしひし感じます。「ネイティブはそんな事言わない」とか、デキる人(?あるいは教材ビジネス?)からのダメ出し言説も世に溢れていて、脅してくる圧が高いですしね。まあここで「勉強サクセス術」なんてものを期待して読んでる人は皆無だと思うのでそんな圧を感じる必要はまったくないはずなんですが、それでもちょっとそんな風に思ってしまう、これこそ呪いの深さよ。おお怖。 

というわけで、たいていの人は初学段階では「ほめられた方が伸びる」というか、苦手意識をいかに植え付けないかが幸福の鍵なんじゃないでしょうか。キビシイ鍛錬とか、そういうのは学習意欲が十分育ってからの話なんじゃないかなというか、なんにつけ、そもそも学びを深めれば自分のクオリティに一番厳しくなるのは自分なんじゃないかなとも思いますし、深い習熟の道に入った後には挫折や苦しみはありますけど、アペリティフぐらいの勉強ならば、ちょこっとマイルドでテイスティな方が手を伸ばしやすいですよね。

 

まあ、でもDuoみたいに甘やかしだけだと、ついつい忙しさにかまけてちっとも勉強しないんですがね。だらだら生きてるくせに、いつも時間がないのであった。Pourquoi?

花香さんのショップカードのお仕事

フラワーアレンジメントショップHANAKA(花香)さんでもう大分前にショップロゴを作るお仕事をしたのですが、このたびショップカードなどをリニューアルするとの事で、またご注文いただきました。ドライフラワーはシンプルなので、添えるものも雰囲気を合わせてあっさりとした線画の軽いタッチのイラストをあしらってデザインしてみました。

名刺大のショップカードと、ハガキサイズでご購入者さんへのサンキューカード的なものも作りました。こちらはドライフラワーのピースをちょこっとあしらったり、デザイナーのkaoriさんが一言メッセージを入れたり出来るように空間を大きめに作りました。

 


 

お日様の香りがする、シックで大人かわいいドライフラワーを手がけているHANAKAさんのはこちらです。

HANAKA 公式HP

HANAKA kaori_hanaka Instagram

オンラインの他にもアトリエもあり、ワークショップなども開催されています(ご興味ある方は詳細はコロナ情勢なので開催時期などはお店にご確認いただけましたらと思います)

 

普段人物を描く機会が多いのですが、こういう仕事も楽しいですね!わたしは、自分ではそんなに意識して画風を描き分けてるつもりはなくて、まずはひたすら万年筆ですらーと描きたい線を描いていて、仕事の内容に合わせて最適かなと思うアレンジでアウトプットしてるので、全然ジャンルの違う仕事をいろいろしてたりします。基本の線画の画風はそれほど変わらなくとも、構図や色数、描く対象、指示の状況や説明的なイラストかイメージ中心のイラストか、など、アレンジで絵は変わってきますよね。

HANAKAさんが様々な素材を使っても、常にHANAKAらしいセンスですてきなアレンジメントを作るように、わたしも様々な要素や条件を取り入れつつも最終的に一貫した自分らしい良さを出せる作品を作り続けて、科学書からおしゃれ、文芸、実用ナドナド、縦横無尽に万年筆を走らせたいなあと思います。ご依頼の際には、どういう仕上がりの感じがご希望かHPにある絵などでお気軽にお知らせくださいませ。 

仕事紹介です


 光文社さん「コミュ障でビビりなリーダーでも、部下を思うように動かせる本」という晴瀬ワカルさんのご本のカバーを描きました。コミュニケーション障害という言葉は医学的な意味での障害を表す他に、近年では「コミュニケーションが苦手」という通俗的な意味でも使われており、こちらでは後者の意味でのコミュ障ですね。他者が誰かをコミュ障だ、とあげつらうのは良くない事と思うのですが、自己申告で「コミュ障」と言う方が増えているというのは、それだけ他者とのコミュニケーションに困難を抱えていて、そういう自分の状態を人に理解してもらいたい、理解してもらえないとしんどい、という状態の人が多いという表れなのでしょうね。(他人事みたいに書いてますが、わたしも感じる事多々です)。コミュニケーションが苦手でも、他者と円滑に仕事を進めたり、お互い快適に生活を過ごせるよう相手に配慮できるようになりたい、という時、そのノウハウを公開してくれるこういう本がヒントになって多くの人が助かるといいなあと思います。

  

今年1月より「経営者の四季」という経営者さん向けの月刊冊子の表紙と中の連載のイラストを描いています。

 表紙の下の方は配布部署ごとに差し替えになるので空欄になってます。

毎回連載の内容と表紙が連動していて、テーマに沿ってイラストのご指示をいただいています。

他にも連載などもありつつあれこれ描いてるのですが、一回のブログが長いのも読みにくいので、それはまたおいおいに(おいおいなのかい、オイオイ)。

 

わたしはだあれ、あなたはだあれ

最近夕飯を食べながらスタートレック宇宙大作戦を見ています。わたしは全然トレッキーとかではなく、地上波やケーブルで流れてたのをなんとなく見てた人なんで、宇宙大作戦ピカード船長のシリーズと映画をいくつか、しか見てないんですが、最近NETFLIXになんでもそろってるんで、せっかくだから徐々に制覇してやろうかしらん。というか、まず宇宙大作戦も全編ちゃんと通して見たことがなかったんで最初から最後まで見ようということなんですが、始まってここ10回ぐらいで、話のパターンが基本的に1つか2つという予定調和世界なので、安心して(?)毎回「あーこうなってこう終わる」と思ってのんきに見てられますね。

 

 ここ10回ぐらいのテーマは全部「人間性の変貌」への恐れに基づいており、ようするに

「あの人はなんか人が変わってしまった」

という感覚は宇宙時代になっても人間の心に不安をもたらすのですね。昔から「ジキル博士とハイド氏」など、人間の二面性を描いた恐怖のお話ってありますし、ゾンビなんかもそのバリエーションですよね。SFでは「外側から見るとあの人なのに、実はそうではなくなっている」というパターンのお話が多い感じがします。エイリアンとか遊星からの物体Xとか乗っ取り系のお話です。明らかに人が違っちゃうのも怖いけど、「あれ、なんかおかしい...」みたいな不信状態も結構ヤです。さて、スタートレックでは、どっかの星に一人遭難とか隠遁してた人は大体人が変わっちゃってますし(このパターン多すぎ)、または、カーク船長が二人になっちゃった!とか、感染症になって人が変わっちゃったカーク船長とか、洗脳されてお色気に幻惑されるカーク船長とか、カーク船長のアイデンティティの危機が続くので「こんなに毎回翻弄されるうかつな船長で大丈夫なのか」と船員に思われそうな気もしますが、毎回次回になるときれいさっぱり話がなかった事になり船長への信頼は揺らぎません。

 

しかし、考えてみると、その人の「その人らしさ」ってなんだろうな、とも思います。例えば、自分だって久しぶりに会った人には「なんか昔と変わったね」とか思われている事があるだろうし、このSNS時代、いくつか別のSNSを使ってたりすると、いや、別にSNSに限りませんが、所属する場所や人間関係の輪ごとに若干自分が他人に見せる面というのは違ってくるというのは日常経験している事ではありますよね。人間が相手の事を100%理解する事も不可能ですしね。そこでSFなどでは、その分かり合えない人間同士の不安のリリーフに、スポックとかデータとか「(基本的には※)感情的にゆらぎない状態でいる相棒」みたいな存在がいて、視聴者に安心を与えるという寸法なのですね。銀河ヒッチハイクガイドのマーヴィンも、常にネガティブですが、ネガティブであるという意味においてとても安定した存在でほっとします(するか?)。こういう相棒キャラの配置という図式は、革新的宇宙時代においても人の心には「変わらぬものにいてほしい」という若干保守的な願望もあるという表れなのかもしれません。というか、SFだけでなく日常で、テレビで見ているタレントさんとかはそういう役割、「キャラ」を求められている存在でもありますね。

 

まあ、でも、やっぱり人間はそういう存在になれないというか、人間は「キャラ」ではないゆらぎある複雑な存在なわけで、「キャラ」という概念に慣れすぎるのも、もしかして人間同士の付き合いには障壁を作るのかもしれないな...とか思ったりして。人間は孤独な島ではないが、不変のキャラでもないのである。というわけで、この人はこういう人であってほしい、という自分の思い込みや期待が相手に負担をかけるという局面もあるかもしれず、気を付けたいなと思ったり。まああと、政治家とか、キャラとして見ちゃダメな人をキャラ扱いしないように気をつけないとね、とか。

 

ところで、にしても、エンタープライズ号には防疫の概念がなさすぎる。見知らぬ星にあんな無防備な格好で行っちゃダメ!わー宇宙の謎物質に素手でベタベタ触らない!とか、このコロナ禍で見るとつくづく思います。2021年、それはもうSFよりSFの世界なのであった。

 

※実際のところスポックもかなり感情的でいろいろやらかしてますし、データも感情チップとかつけちゃいますけどね。

瞠目のひょわひょわパワー

 


 

(イラストはイメージですので実際の登場人物や場所とはやや関係ありません)

今年は5月半ばからすっかり梅雨みたいな日々が続きましたね。...って、わたしは大変納得してないのである。わたしの5月を返せ!そもそも、うちのベランダ環境では、春先は激しいビル風が吹き荒れ、しかも日照区画が少ない(秋には日が当たるんですが)ので、春の楽しみであるところの種まきから芽生え、みたいなのが全然うまくいかない秋作専門環境なのですが、今年はそれだけでなく、4月には冷害、5月は強風と雨続きなもんで、いつもにもましていろんな野菜がうまく育ちません。暴風でしわくちゃになったサンチュやウドンコにやられ貧弱なスナップえんどうを恨めしく眺める今日この頃。

 

風でボロボロ。

 

 


 

ところでこっち↑は蒔いてないのに種が飛んだ玄関先のサンチュなんですが。このお方が一番いきいきしている。軒を貸して母屋をとられている多肉。

コンポストからうじゃうじゃ出てくるかぼちゃも。生えるだけは生えるんですよね(その後は場所がなくてうまく育たないけど)。

 


 

 

人間の思惑など、あさましきものである、と嘲笑うように予定外のものが元気。

 

ここでの園芸歴はもう20年以上なので、野菜以外の園芸植物はこの環境に順応した強者どもだけが生き残っています。

 


 

適応された方々。クレマチスは年々お化けみたいにでっかくなって手に負えないし、このゼラニウムは挿し木で増えに増えまくって、いいんだけどなんかこのお方だけになりつつあり、ベランダ内から多様性が減っていくので若干複雑な気持ちです。

なんですが、わたしはもっと野菜を育てたいのである。でも、野菜はなかなか難しいのでありますね。ままならぬものよ。とはいっても、いつも健やかに育ってるものもあります。スプラウトです。

 


 

 

スプラウトというのは一般的に室内で水耕栽培するものと相場が決まっておりますが、どうもわたしは室内水耕栽培はあまり得意でなく、すぐ水やりを忘れて干からびさせたり、逆になんかどーも腐ってきたような...みたいなことが多いので敬遠しています。(豆苗の2回戦目は別ですが。あれは簡単)。

翻って、先ほどの「予定外のものの方が育つ」話に戻りますが、ベランダという過酷環境下では、スプラウトにするつもりなど毛頭なく「でっかい苗に育っておくれ」と種まきしたものが悉くスプラウト化するんです。去年まで市民農園を借りてた(※)んですが、あれはいいですね。ラディッシュとか、適当に蒔いておけば、ふくふく太ってくれたんですから。

 


 

偉大なり太陽。豊かなり土壌。それに比べて、ベランダじゃあこうです↓。君らはスプラウトじゃないんだ。ラディッシュなんだ。ひょろひょろしないでどっしりかまえるんだ。 (風に負けないように過保護にして一等地に住まわせているにも関わらずすでにスプラウト化のきざしが...)

 


 

 ああ、日当たりの悪いベランダよ。悪条件しかないベランダよ。なぜにわたしは土地を持っていないのか、貧しき我を嘆くのみ。

 

と嘆いてる場合じゃありません。なんでもスプラウトになっちゃうなら、スプラウトを育てるのにうってつけなのではないか。と気づいてから、わたしの人生はスプラウト長者です。日が当たらない、風も当たらないような超隅っこのどうでもいい区画が緑あふれる空間に!しかも食べ放題!というわけで、同様の悪条件でお悩みの方にオススメです。土も、スプラウトが生えるぐらいの短い時期なんで、そんなに取り替えたりしなくても連作でいけます。収穫時は引っこ抜いて土を払って、根っこをはさみで切ってよく洗い、その日のうちに食卓へどうぞ。

いくつか注意としては、すべての種がスプラウト化できると言えど、苗用の種は消毒してある事もあったりするので、スプラウト専用の種を使うが吉と思いますのと、土は動物性堆肥が入ってない土がよいと思います(スプラウトだけの話ではないのですが、未熟な動物性堆肥には病原菌感染のリスクがあるんで、

https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010892407.pdf

特に家庭では生食用野菜には使わないほうがいいのかもしれません。まあ、スプラウトはもともと肥料いりませんし。ちなみにわたしは菜食で自宅で出た野菜くずをコンポストにしてるので動物性堆肥・肥料は全然使いません)。梅雨の鬱陶しい日々もなんのそのでできるスプラウトライフ、皆さんもいかがですか?って、別に勧めるほどのことでもないですけど。

 

 

 

※...(ところで、残念なことにうきうき市民農園ライフは借地期限が来てしまい、また抽選に応募しようと思ったんですが、仕事が忙しくなるとすぐ親に世話を任せっぱなしにしてしまう自分の無責任さを反省して今回はパスしました。ああ、無念)