saoriotsuka-diary

イラストレーター大塚砂織の由無し事を綴るページです。仕事の紹介もしますが、ベランダ園芸の話やたわいない話が多いかも。

仕事紹介です


 光文社さん「コミュ障でビビりなリーダーでも、部下を思うように動かせる本」という晴瀬ワカルさんのご本のカバーを描きました。コミュニケーション障害という言葉は医学的な意味での障害を表す他に、近年では「コミュニケーションが苦手」という通俗的な意味でも使われており、こちらでは後者の意味でのコミュ障ですね。他者が誰かをコミュ障だ、とあげつらうのは良くない事と思うのですが、自己申告で「コミュ障」と言う方が増えているというのは、それだけ他者とのコミュニケーションに困難を抱えていて、そういう自分の状態を人に理解してもらいたい、理解してもらえないとしんどい、という状態の人が多いという表れなのでしょうね。(他人事みたいに書いてますが、わたしも感じる事多々です)。コミュニケーションが苦手でも、他者と円滑に仕事を進めたり、お互い快適に生活を過ごせるよう相手に配慮できるようになりたい、という時、そのノウハウを公開してくれるこういう本がヒントになって多くの人が助かるといいなあと思います。

  

今年1月より「経営者の四季」という経営者さん向けの月刊冊子の表紙と中の連載のイラストを描いています。

 表紙の下の方は配布部署ごとに差し替えになるので空欄になってます。

毎回連載の内容と表紙が連動していて、テーマに沿ってイラストのご指示をいただいています。

他にも連載などもありつつあれこれ描いてるのですが、一回のブログが長いのも読みにくいので、それはまたおいおいに(おいおいなのかい、オイオイ)。

 

わたしはだあれ、あなたはだあれ

最近夕飯を食べながらスタートレック宇宙大作戦を見ています。わたしは全然トレッキーとかではなく、地上波やケーブルで流れてたのをなんとなく見てた人なんで、宇宙大作戦ピカード船長のシリーズと映画をいくつか、しか見てないんですが、最近NETFLIXになんでもそろってるんで、せっかくだから徐々に制覇してやろうかしらん。というか、まず宇宙大作戦も全編ちゃんと通して見たことがなかったんで最初から最後まで見ようということなんですが、始まってここ10回ぐらいで、話のパターンが基本的に1つか2つという予定調和世界なので、安心して(?)毎回「あーこうなってこう終わる」と思ってのんきに見てられますね。

 

 ここ10回ぐらいのテーマは全部「人間性の変貌」への恐れに基づいており、ようするに

「あの人はなんか人が変わってしまった」

という感覚は宇宙時代になっても人間の心に不安をもたらすのですね。昔から「ジキル博士とハイド氏」など、人間の二面性を描いた恐怖のお話ってありますし、ゾンビなんかもそのバリエーションですよね。SFでは「外側から見るとあの人なのに、実はそうではなくなっている」というパターンのお話が多い感じがします。エイリアンとか遊星からの物体Xとか乗っ取り系のお話です。明らかに人が違っちゃうのも怖いけど、「あれ、なんかおかしい...」みたいな不信状態も結構ヤです。さて、スタートレックでは、どっかの星に一人遭難とか隠遁してた人は大体人が変わっちゃってますし(このパターン多すぎ)、または、カーク船長が二人になっちゃった!とか、感染症になって人が変わっちゃったカーク船長とか、洗脳されてお色気に幻惑されるカーク船長とか、カーク船長のアイデンティティの危機が続くので「こんなに毎回翻弄されるうかつな船長で大丈夫なのか」と船員に思われそうな気もしますが、毎回次回になるときれいさっぱり話がなかった事になり船長への信頼は揺らぎません。

 

しかし、考えてみると、その人の「その人らしさ」ってなんだろうな、とも思います。例えば、自分だって久しぶりに会った人には「なんか昔と変わったね」とか思われている事があるだろうし、このSNS時代、いくつか別のSNSを使ってたりすると、いや、別にSNSに限りませんが、所属する場所や人間関係の輪ごとに若干自分が他人に見せる面というのは違ってくるというのは日常経験している事ではありますよね。人間が相手の事を100%理解する事も不可能ですしね。そこでSFなどでは、その分かり合えない人間同士の不安のリリーフに、スポックとかデータとか「(基本的には※)感情的にゆらぎない状態でいる相棒」みたいな存在がいて、視聴者に安心を与えるという寸法なのですね。銀河ヒッチハイクガイドのマーヴィンも、常にネガティブですが、ネガティブであるという意味においてとても安定した存在でほっとします(するか?)。こういう相棒キャラの配置という図式は、革新的宇宙時代においても人の心には「変わらぬものにいてほしい」という若干保守的な願望もあるという表れなのかもしれません。というか、SFだけでなく日常で、テレビで見ているタレントさんとかはそういう役割、「キャラ」を求められている存在でもありますね。

 

まあ、でも、やっぱり人間はそういう存在になれないというか、人間は「キャラ」ではないゆらぎある複雑な存在なわけで、「キャラ」という概念に慣れすぎるのも、もしかして人間同士の付き合いには障壁を作るのかもしれないな...とか思ったりして。人間は孤独な島ではないが、不変のキャラでもないのである。というわけで、この人はこういう人であってほしい、という自分の思い込みや期待が相手に負担をかけるという局面もあるかもしれず、気を付けたいなと思ったり。まああと、政治家とか、キャラとして見ちゃダメな人をキャラ扱いしないように気をつけないとね、とか。

 

ところで、にしても、エンタープライズ号には防疫の概念がなさすぎる。見知らぬ星にあんな無防備な格好で行っちゃダメ!わー宇宙の謎物質に素手でベタベタ触らない!とか、このコロナ禍で見るとつくづく思います。2021年、それはもうSFよりSFの世界なのであった。

 

※実際のところスポックもかなり感情的でいろいろやらかしてますし、データも感情チップとかつけちゃいますけどね。

瞠目のひょわひょわパワー

 


 

(イラストはイメージですので実際の登場人物や場所とはやや関係ありません)

今年は5月半ばからすっかり梅雨みたいな日々が続きましたね。...って、わたしは大変納得してないのである。わたしの5月を返せ!そもそも、うちのベランダ環境では、春先は激しいビル風が吹き荒れ、しかも日照区画が少ない(秋には日が当たるんですが)ので、春の楽しみであるところの種まきから芽生え、みたいなのが全然うまくいかない秋作専門環境なのですが、今年はそれだけでなく、4月には冷害、5月は強風と雨続きなもんで、いつもにもましていろんな野菜がうまく育ちません。暴風でしわくちゃになったサンチュやウドンコにやられ貧弱なスナップえんどうを恨めしく眺める今日この頃。

 

風でボロボロ。

 

 


 

ところでこっち↑は蒔いてないのに種が飛んだ玄関先のサンチュなんですが。このお方が一番いきいきしている。軒を貸して母屋をとられている多肉。

コンポストからうじゃうじゃ出てくるかぼちゃも。生えるだけは生えるんですよね(その後は場所がなくてうまく育たないけど)。

 


 

 

人間の思惑など、あさましきものである、と嘲笑うように予定外のものが元気。

 

ここでの園芸歴はもう20年以上なので、野菜以外の園芸植物はこの環境に順応した強者どもだけが生き残っています。

 


 

適応された方々。クレマチスは年々お化けみたいにでっかくなって手に負えないし、このゼラニウムは挿し木で増えに増えまくって、いいんだけどなんかこのお方だけになりつつあり、ベランダ内から多様性が減っていくので若干複雑な気持ちです。

なんですが、わたしはもっと野菜を育てたいのである。でも、野菜はなかなか難しいのでありますね。ままならぬものよ。とはいっても、いつも健やかに育ってるものもあります。スプラウトです。

 


 

 

スプラウトというのは一般的に室内で水耕栽培するものと相場が決まっておりますが、どうもわたしは室内水耕栽培はあまり得意でなく、すぐ水やりを忘れて干からびさせたり、逆になんかどーも腐ってきたような...みたいなことが多いので敬遠しています。(豆苗の2回戦目は別ですが。あれは簡単)。

翻って、先ほどの「予定外のものの方が育つ」話に戻りますが、ベランダという過酷環境下では、スプラウトにするつもりなど毛頭なく「でっかい苗に育っておくれ」と種まきしたものが悉くスプラウト化するんです。去年まで市民農園を借りてた(※)んですが、あれはいいですね。ラディッシュとか、適当に蒔いておけば、ふくふく太ってくれたんですから。

 


 

偉大なり太陽。豊かなり土壌。それに比べて、ベランダじゃあこうです↓。君らはスプラウトじゃないんだ。ラディッシュなんだ。ひょろひょろしないでどっしりかまえるんだ。 (風に負けないように過保護にして一等地に住まわせているにも関わらずすでにスプラウト化のきざしが...)

 


 

 ああ、日当たりの悪いベランダよ。悪条件しかないベランダよ。なぜにわたしは土地を持っていないのか、貧しき我を嘆くのみ。

 

と嘆いてる場合じゃありません。なんでもスプラウトになっちゃうなら、スプラウトを育てるのにうってつけなのではないか。と気づいてから、わたしの人生はスプラウト長者です。日が当たらない、風も当たらないような超隅っこのどうでもいい区画が緑あふれる空間に!しかも食べ放題!というわけで、同様の悪条件でお悩みの方にオススメです。土も、スプラウトが生えるぐらいの短い時期なんで、そんなに取り替えたりしなくても連作でいけます。収穫時は引っこ抜いて土を払って、根っこをはさみで切ってよく洗い、その日のうちに食卓へどうぞ。

いくつか注意としては、すべての種がスプラウト化できると言えど、苗用の種は消毒してある事もあったりするので、スプラウト専用の種を使うが吉と思いますのと、土は動物性堆肥が入ってない土がよいと思います(スプラウトだけの話ではないのですが、未熟な動物性堆肥には病原菌感染のリスクがあるんで、

https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010892407.pdf

特に家庭では生食用野菜には使わないほうがいいのかもしれません。まあ、スプラウトはもともと肥料いりませんし。ちなみにわたしは菜食で自宅で出た野菜くずをコンポストにしてるので動物性堆肥・肥料は全然使いません)。梅雨の鬱陶しい日々もなんのそのでできるスプラウトライフ、皆さんもいかがですか?って、別に勧めるほどのことでもないですけど。

 

 

 

※...(ところで、残念なことにうきうき市民農園ライフは借地期限が来てしまい、また抽選に応募しようと思ったんですが、仕事が忙しくなるとすぐ親に世話を任せっぱなしにしてしまう自分の無責任さを反省して今回はパスしました。ああ、無念)

きれいにするということは

 


ブラシの木の季節ですね。わたし、ブラシの木って、ヘアブラシの事だとずーっと思ってて、ヘアブラシには見えないよなあ、と思ってぼんやりとこの年まで生きてきたんですが、ふと英名を調べると、Bottlebrush plantsというんですね。

 


 

言われてみれば、それだよ!それしかないよ!って今更気づきました。きれいな花なんだけど、きれいにするほうのものに似てるのだった。人生って長く生きてても知らなかったり勘違いしてる事で満ち満ちていますね。おほほ、はずかし。そのブラシの木(ちゃんとした名前だとブラシノキですが)、カリステモン属でして、カリステモンというのはギリシャ語で「美しい雄しべ」という意味(by wikipedia)で、このブラシの赤いほわほわは雄しべなのであり、よく見ると雄しべに混じってひときわ長い雌しべがぴょいぴょい出てたりもするんですね。種は集合恐怖の人にはけっこう厳しいビジュアルな感じもしますが、故郷のオーストラリアでは、この硬くつぶつぶした種子たち、山火事などがあると弾けて撒かれるようです。しかし、最近のように山火事が多いと、撒かれてもまたすぐ若い木が焼かれてしまいそうでちょっと心配ですね。どうなんでしょうか。山火事の跡にすぐ生えてくるきのことかもあるそうで、そのきのこは逆に普段はじっと菌糸として待機してたり、自然というのはいろいろ不思議なもんです。というか、なんでこんなにボトル洗いブラシに似てるのか。人間が模倣したのかしらん。

 

ところで、ボトル洗いといえば、よく醤油とか調味料のふた、洗って捨てる時、分別して捨てたいのに分別できないものってありますよね。蓋の部分を引っ張って、くるっと剥いて外す、という方式のヤツ、どうもうまく外れないものも多くないですか。こうなっちゃうと、もうペンチとかないと外せなくて困ってます。

 


 

また、ボトルのふたなど、環状に閉じたプラスチックごみは必ずハサミで輪を断ち切ってから捨てるようにしています。

 


 

分別しているとはいえ、物事なんの偶然と因果で最終的に海のウミガメやらカモメのくちばしやらにすっぽり納まってしまうとも限りませんからね。というか、自分が分別してきちんと捨てて、家の中から消えてああきれいさっぱり、と思ったら、自分の家じゃない所が大惨事。そういうのちゃんとなってると勘違いしていたよ!というような事がこの高度分業型資本社会には満ち満ちていますので、それこそ人間活動の後始末は環状に閉じたサイクルで自然にはみださないようになるべくできるといいのになあと思います。こういう輪を切りながら、この輪にすっぽり入ってしまう生き物ってなんだろか、とかお腹いっぱいこれを食べちゃってる鳥やら魚やら想像しだすと、やるせない気持ちになってきます。せめて全部同素材で同色とかに規格統一してマテリアルリサイクルとかしやすくする、とか、使用を減らすいいアイデアとかないものかなあ...。ぷちん。とかモヤモヤ思いながら切ってます。便利だからこそ使われてるわけで、これがないと困るよ、という局面もまだまだあるとは思うんですけど、減らせるところは減らせるといいですよね。こう、なんか、システムの中のボトルネックになってる部分もぷちんと切れないものかしらねえ...。と、なんか話が脱線しましたね。 ではでは。

はまってる外側から見る

ウォールデンに住んだら忙しくて仕事どころではない

仕事以外の気分転換というと最近はもっぱらひとけのないところを小一時間ぐらい散歩する事なんですが、ちょっとした林の中を歩いてるだけでもいろいろ発見があります。「苔は木々の北側に生える」と歌った歌手もおりますが、ほんと、そういう事がこまごま気になり、分かると面白いもんです。例えば、この絵の中で言うと、この林は左手が南向きで、木々はやっぱりそっちのほうになんとなく向かって生えてるんですね。また、手に持ってる枝のきのこ、枝は地面に落ちてたんですが、きのこというやつは光合成を全くしないわけで、では何をめざして彼らは成長してるのかというと、彼らが感じているのは重力なわけです。ニコラス・マネーという人の本に書いてあったんですが、きのこにとって重力は非常に大事で、それは傘から胞子を落とす為だそうです。胞子が下向きに発射され、それが風にのりどこまで飛ぶのかが重要なのです。というわけで、このきのこが生えてる枝は右側が地面に接地してたのですね。

 

 最近林でよく悲しい発見もします。神奈川県一帯ではここのところ、大規模に「ナラ枯れ病」が発生しており、公園に行くたびに枯れたナラが切られちゃってるんですが、うちの近所の谷戸山公園という場所では、なんと250本以上ものナラがやられてしまって、林がすっかすかになってしまっています。「風の谷のナウシカ」で、風の谷に飛行船が墜落したせいで村の果樹園が腐海の胞子に飲まれちゃって、「ああ、この木も...」みたいな絶望シーンがありますが、まさにあれなんですよ!どうしてくれるの!そのナラ枯れ病はなんで起きるかというと、カシノナガキクイムシという虫が木を食害する際に、彼らが「ナラ菌」を運んでしまう伝染病なんですね。というわけで、伐採と消毒が行われてるんですが、カシノナガキクイムシには天敵はいないのかしらん、と思ったら、ルイスホソカタムシという、まあ同じ木を食べる種類なんですが天敵がいるそうです。また、コゲラとかそういう鳥たちもつついて食べたりするのでは、と思うと、殺虫剤を撒いて対策、というのは対処療法ではありますが、なんとなく根本解決的には鳥や虫など多様性を減ずる方向ではなく、増やす方向の方がいいんではないかなあ...。と思ったりもします。

 昔、散歩中に出会った自然派カメラマンっぽいプロっぽい人(なんじゃそりゃ)が、昔に比べてこの公園の動植物が減ってるのである、君らも気をつけて見てみるがいい。と言ってましたが、わたしも公園散歩歴は長く、実感としてそういうの、感じるんですよねえ...。少なくとも、きのこは減ってる感じがします。きのこというのは、土壌中でワールドワイドウェブならぬ「ウッド・ワイド・ウェブ」を形成してて、要するに菌根菌ネットワークで木と密接に関わりあってるそうです。世界の大樹、長寿樹を調べると多種のきのこと菌根菌で繋がってるとかいないとか。多様性マスター、きのこなくして世界なし。というわけで、散歩しながら足元の菌根菌に思いを馳せているのですが、端から見るとただ下を向いてぼんやりうろうろしてるヒマ人風情満開の人です。まあ、ソロー先生も日がな1日ありんこの戦いとか眺めて過ごしてちっとも悪びれなかったですしね、自然観察はとにかく飽きませんし、その事について書かれた本を読むのも超楽しく、そんな事ばかりしてると仕事時間はいったいどうなってるのか、というと仕事もするわけで、結果的に慢性睡眠不足です。しかし、マスクして森を行く(たまに人とすれ違うんで、やっぱり用心しています。すっかりマスクに慣れましたねえ...)現代のこの状況を見たらソロー先生は何を思うんでしょうねー。自然をないがしろにしたせいである、と喝破しそうですね。うん。

イラストレーションファイルなどお知らせと、久々のアレ

ちょっと前の話になりましたが、今年も玄光社さんのイラストレーションファイル2021にご掲載いただきました。 また新しいお仕事との出会いを楽しみにお待ちしております!

 

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それと、先日、パレットクラブスクールさんの卒業生インタビューを受けました。わたしは一期生なのです。いやー、懐かしいような、ついこないだのような...。(クリックでページを開きます)

 

パレットクラブニュース 2021


 ところで、コロナ状況のため、ここ一年以上美容院に全然行ってなかったんで、これらに顔写真が必要だったのですが髪がぼさぼさの伸び放題のまま写真に収まってしまいました。あとで見てさすがに反省したので、その後セルフカットしてみました。出来はともかく、髪を切ると気分がすっきりしますね。出来はともかくなんですが...(コロナ状況で人と会わないのが常態化しているため、自分の中でなにかいろんなハードルが下がってる気がします、ま、いっか)

 

今日はところで、まんががあります。(クリックで拡大できます)


 

 

でっかい片付けは小さく分けて取り組むとよいと本に書いてある

 物事、やらなきゃいけないんだけど、どっからどう手をつけていいのかわからない。考え出すとオックウで、ま、いっか、今度で。と言いながら永遠にほったらかしておまんじゅうなどを食べてのんべんだらりとしてるような事がありますよね。そういう場合、それを小さく分割して、小さい所からいっこずつつぶしていく、というのがよいとよく整理本とかに書いてあります(ちなみに、わたしは何事もやる気を出す為に、まず整理本とかシンプルライフとかの本を読みます。そういう本を読んでると自分までそのようにすっきり美しくかしこく生きられるような錯覚がしてよいです。実行できるかどうかは全然別問題なんですけどね!)。

 

 って、なんのこっちゃ。って感じですが、最近、そろそろHPのデザインなどを更新したいのですが、「わー!どっから手をつけていいかわからん!」となってるという問題があるのです。どうせゴールデンウィークはどこにも行かないのでよい機会、GW集中課題とし、小さく分割してやれる所から手をつけようと思い、その決意をここに書き記しているのであります。まずは決意を書くことで自分を追い立てるのであった。そして、そうだ、以前お仕事いただいた本に「図で考える」というのがあったんで、あれでやってみよう。と書いてみてるんですが、電話中に書いてる意味不なメモ的なものができあがっており、先行きが不安なのであった。

 

 

近況もろもろをちょっとずつ

 ものすごく間が空いてしまいました。特に意味はないんですが、書かなくなると書かなくなりますね。こりゃいかん。

というわけで、最近の仕事です。

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結城浩さん「再発見の発想法」(SBクリエイティブ刊)でカバーと挿絵を描きました。この本、すっごく面白いですよ!技術用語のコンセプトを解説しながら、日常生活への応用に展開するという、目からウロコな発想です。

 

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また、雑誌「中央公論」さんの「新書大賞」コーナーの扉絵を描きました。

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いっぺんにいろいろ投稿すると一個の記事が長くなっちゃうし、投稿するのがオックウになってしまうのがブログ更新が滞る敗因なのでは、と最近思ってきました。ので、分けて投稿したほうがいいかなと思いました。ので、仕事紹介の続きは次回(近日更新!のはず...) またしようと思います。

 あと、最近は仕事の合間をぬって、絵を描きためるようにしてて、noranohaでちっちゃい画集的な感じにして出そうかなーと思ってるんです。描くのは楽しいけども、なかなか進まず。また進んできたらこちらでも紹介しつつにしようと思いますが、コンセプトは、Doorなんです。(なんのこっちゃ?!) 



 

 

 

 

カレンダー作りました&あれこれ

すっかりここでの告知が遅くなってしまったんですが、noranohaで2021年用のカレンダーを売っています。ツイッターなどで告知したため、おかげさまでぼちぼち買っていただいているのですが、まだまだこれからでもぜひ。

 

今回はひと月ごとになんとなくテーマソングがありまして、それについての解説をツイッターで今流してるんですが、買っていただくとそれらがプレイリストにまとめてある紙も付いております。 なお、今年は紙質とフォーマットを去年と変更しまして、A4マーメイド紙で質感がよいです。

 

仕事の紹介も滞ってたんでぼちぼち。先日も紹介しましたが、ミュージカル「NOW. HERE. THIS」のポスターとパンフレットの仕事をしまして、出来上がったパンフレットも紹介しておきます。

 


 

 

 

 

 

 

 

パンフレット中面は役者さんの写真の背景にばーんとイラストも配置されてるんですが、役者さんの肖像権の都合上ここでは紹介してませんが、それもすごくいい感じに使っていただいてます。

なお、私も公演を博品館に見に行ってきました。会場は感染対策に大変気を使っていて、入念なチェックとともに十分なソーシャルディスタンシングを保っての観劇でした。ここ1年、ライブも演劇も映画館すらも自粛していたので、久々に役者さんたちの生の声、演技の迫力が本当に感動的で、涙が出てしまいました。すばらしかったです。この演劇のテーマも、人類の営みと個人の葛藤というテーマを軽妙にまた時に考えさせられるようなものでしたので、今の気分に非常に合っていました。芸術関係の方々にも非常に辛い年になってしまっていますが、やはり芸術は人々の心の栄養、なんとか補助などもっとして文化の灯を消さないようにしてほしいと切実に願います。 

 

連載の紹介も少し。ポプラ社*astaさんで連載中の小路幸也さんの小説「花咲小路二丁目の寫眞館」。

 

今回はシリーズ全体のキーになる人物セイさんの若き日が物語に大きく関わってきています。上はセイさん若い頃。毎回なんとも気になる展開なのです!絵を描きながら続きを楽しみにしています。

 

しんきんさんの会報誌「はれ予報」では、普段描いてる吉永みち子さんの連載に加えて、新年特別企画で苫米地英人さんのコラムの挿絵も描きました。自分の思い込みや思考の四角を飛び越えて、「自分にはできる!」を自分の中で習慣化していくのが夢の実現には大事というお話、年々小さくまとまりがちな自分にも喝を入れたいなと思わされました。

 

 

↑こちらはいつもの吉永さんの連載のイラストのほうの小カット。ソーシャルディスタンシングで年の瀬バトンタッチです。

 

 

さて、皆様、今年もたいへんお世話になり、ありがとうございました。こういうご時世で、フィジカルには人と関わるのが難しいですが、仕事などを通じて今年も多くの出会いがあり、いろんな方に助けられて生きられているのを実感します。それと、本当にみんな元気で不安なく生きててほしいな、と願います。来年は良い年になるといいですね!お体に気をつけてお過ごし下さい。ではまた来年。